ルーマニア成立以前
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「ルーマニア領の変遷」の記事における「ルーマニア成立以前」の解説
詳細は「ワラキア」および「モルダヴィア」を参照 1859年にルーマニア公国として統合されるまで、ルーマニアはワラキアとモルダヴィアに分かれていた。いずれも14世紀に成立した国で、その国境は幾度となく変更されている。ワラキアは、ミルチャ1世の統治時代にドブロジャを獲得したが、1418年頃にオスマン帝国によって奪われた。同時期にオスマンは、ドナウ川の北側にある港町、ジュルジュやトゥルヌ・マグレレも占領している。また、16世紀の中頃には、ブライラも失った。1600年、ワラキアのミハイ勇敢公が、ルーマニアにあった3つの公国(ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア)を統一したが、これは長続きしなかった。1718年の終わりに墺土戦争で勝利したハプスブルク帝国は、ワラキアの西部、オルテニアを併合するが、1739年のベオグラード条約で再びワラキア領に戻っている。また、1826年に締結されたアッケルマン条約では、ドナウ川の北側にある3つの港湾都市がワラキアに回復し、オスマンとの国境はドナウ川に戻された。 一方のモルダヴィアは、ハンガリー王のラヨシュ1世がタタール人に勝利したことによって誕生した。そのため、この地域ではハンガリーの影響が強く、ドラゴシュ統治下の1347年には正式にハンガリーの属領となった。しかし、彼の後を継いだサシュがボグダン1世に敗れたことにより、ハンガリーの属国としての立場は終わり、独立を果たした。しかし、ボグダン1世の治世やその後しばらくの間は、依然としてハンガリー(1370年から1382年にかけてはハンガリー・ポーランド連合)に服従する関係のままであったといわれる。この数年後には、モルダヴィア最初の領土変更が行われる。ポーランド王のヴワディスワフ2世はドイツ騎士団との戦争のために資金を必要としており、1388年、モルダヴィアのペトル・ムシャットに4,000ルーブルの融資を依頼した。この抵当としてポクッチャが譲渡されたが、資金が返済されることはなかった。ポクッチャは、以降2世紀にわたってポーランドとモルダヴィアの係争地域となるが、1531年のオバーティンの戦いでポーランドに奪還された。また、1484年には、キリアとビルホロド=ドニストロフスキーの港がオスマン帝国に占領され、続く1538年にはモルダヴィアの黒海岸(ブジャク)全体も失った。さらに、1711年には軍事的に重要であったホティン一帯もオスマンが併合し、現地のリプカ・タタール人とともに、サンジャク県を設立した。ブコヴィナは、1775年にハプスブルク帝国が侵攻、占領し、以降は強力なウクライナ化が推し進められた。モルダヴィア最後となる大規模な領土の喪失は1812年に起こった。1806年から1812年までオスマン帝国とロシアの間で行われた露土戦争の結果、ブカレスト条約により、東部のベッサラビアがロシアに割譲された。ベッサラビアもブコヴィナ同様、強力なロシア化が実施されたが、ロシアがクリミア戦争で敗北すると、1856年に南ベッサラビアが回復した。 オスマンによりハンガリー王国が弱体化すると、分割が進み、トランシルヴァニアはほぼ独立した状態となっていた。当時のトランシルヴァニアは、現在の領域に加え、バナトや、西部の地域(ベレグ、クリシャナ、マラムレシュ、ソルノクやウンなどの一部、全体でパルティウムと呼ばれることもある)も含んでいる。しかし当時は、ルーマニア人がトランシルヴァニアを支配することはなく、1699年にハプスブルクによって占領された。
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