ルーマニア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 22:24 UTC 版)
1960年代終わりから1970年代初めにかけて彼はルーマニア国内での体操選手の訓練システムの先駆者となった。オネシュティに体操スクールを設置し運動能力の優れた若い少女たちを集めた。彼女らの中には町から近くに住む6歳だったナディア・コマネチもいた。 1974年にコーチとして初の国際大会出場を果たした。この年コマネチが国際大会に初出場を果たし、1975年のヨーロッパ体操競技選手権にもコマネチが出場、1976年のモントリオールオリンピックには彼の指導した選手6人がブカレストにあったクラブ・ディナモの選手を抑えてルーマニア代表に選ばれた。ルーマニア代表は団体で銀メダルを獲得、コマネチは史上初となる10点満点を出した。この大会でルーマニアは金メダル3個、銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。 コマネチの成功によって彼のコーチとしての手腕は広く知られるようになった。1980年モスクワオリンピックでも代表コーチとなった。オリンピック後、ルーマニアに帰国した彼はオリンピックで審判の批判騒ぎを起こしたことなどを理由にルーマニアの少数民族であるハンガリー人を毛嫌いしていたニコラエ・チャウシェスクの意向でルーマニア共産党委員会の査問を受けた。1981年にもルーマニア体操協会と衝突した彼はその年の体操ツアーの際に妻マールタと振り付け師のポジャール・ゲーザと共にアメリカ合衆国に亡命しオクラホマ州に居を構えた
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