ルーデル:1957-79年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 05:50 UTC 版)
「ニューヨーク・シティ・オペラ」の記事における「ルーデル:1957-79年」の解説
ラインスドルフが解雇された後、NYCO役員会は1957年の春シーズンを取り止め、最終的に同社の新しい最高責任者(general director)としてユリウス・ルーデルを任命した。ルーデルは大学を卒業した直後の1944年にNYCOに雇われ、そこで13年間指揮スタッフとして働いていた。ルーデル主導の下、この会社は標準的な作品と冒険的な作品の両方を上演したことで高い評価を引き出し、新たな芸術的高みに到達した。同社はその最先端の舞台演出で知られるようになり、それはこれまでオペラに関わったことのなかった著名な監督を劇場へ引き抜くというルーデルの意欲によるところが大きかった。1960年代半ばまでに、同社は米国で有数のオペラ歌劇団の1つと一般的に見なされていた。 シティ・オペラでの任期中、ルーデルはアメリカのオペラに強いこだわりを示し、12のお試し公演と19の世界初公演をもたらした。彼はまた、1966年2月22日にリンカーン・センターのニューヨーク州立劇場(現:ディヴィッド・H・コーク劇場)でNYCOの新本拠地のこけら落としのため、テナー歌手のプラシド・ドミンゴを配したアルベルト・ヒナステラの『ドン・ロドリーゴ(英語版)』を含む、多数の米国初公演を行った。その同じシーズンに、同社はフランシス・プーランクの『カルメル会修道女の対話』のニューヨーク初公演を行った。 前任者と同じく、ルーデルは若いアメリカ人の才能に注視しており、アメリカ人歌手を数世代にわたって育成する手助けをすることに責任感を持っていた。彼がキャリア育成した歌手の中には、バスバリトンのサミュエル・レイミー(英語版)とリリコ・スピント・ソプラノのキャロル・ヴァネス(英語版)がいた。彼の最も適切な決断の1つは、ビヴァリー・シルズとの芸術的パートナーシップを形成したことで、1956年から1979年のステージ引退まで彼女をNYCOの主要ソプラノにした、ただし劇団との最初の公演のため1955年にヨーゼフ・ローゼンシュトックが彼女を雇ったことは記しておくべきだろう。NYCOと共にシルズが最初の大成功を収めたのは、同社が上演した最初のヘンデルのオペラで1966年の『ジュリオ・チェーザレ』におけるクレオパトラの配役であった。当時はヘンデルのオペラが製作されることは稀で、その製作は国際的報道機関から多くの注目を集めた。シルズはすぐに世界中のあらゆる主要なオペラハウスで出演することになった。シルズは自身の国際的キャリアで忙しかったが、彼女は自らの引退までNYCOでの正規出演者であり続けた。1970年、ルーデルの仕事でより芸術面でのスケジュールを空けるため、ジョン・サイモン・ホワイト(英語版)がNYCOの経営監督(managing director)に任命された。ホワイトは1980年までその職務にいた。
※この「ルーデル:1957-79年」の解説は、「ニューヨーク・シティ・オペラ」の解説の一部です。
「ルーデル:1957-79年」を含む「ニューヨーク・シティ・オペラ」の記事については、「ニューヨーク・シティ・オペラ」の概要を参照ください。
- ルーデル:1957-79年のページへのリンク