ルネ・ヴィヴィアン
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「ナタリー・クリフォード・バーネイ」の記事における「ルネ・ヴィヴィアン」の解説
1899年11月、バーネイは、ルネ・ヴィヴィアンというペンネームの方でよく知られたポーリン・ターンに会った。ヴィヴィアンにとってはこれは一目惚れであったが、バーネイは、彼女が詩作品のうち1篇を朗誦するのを聞いたのちヴィヴィアンに魅せられ、これを彼女は「死への願望に取り憑かれた」と描写した。ふたりのロマンチックな関係はまた、どちらにとっても執筆の霊感を与える創造的な交換でもあった。バーネイは、ヴィヴィアンが詩において探求したフェミニズムの理論的な枠組みを与えた。ふたりは、歴史と神話のなかに英雄的な女性の例を探すこともしながら、女性間の愛を記述する宮廷風恋愛の約束事に加えて、象徴主義詩人のイメージャリーを採用した。ふたりにとってサッポーは特別に重要な影響を与える者であったため、ふたりはサッポーの現存する断片を原文で読むためにギリシア語を研究した。ふたりともサッポーの人生に関する劇を書いた。 ヴィヴィアンはバーネイをムーサと見なし、バーネイが言うように、「彼女は、ほとんど私を知らないままに、わたしを通じて、新たな霊感を見出した」。バーネイは、ヴィヴィアンが彼女にファム・ファタールの役を割り当ていたことや、彼女は彼女の芸術のために「もっぱら苦しむことに...没頭すること」を欲していることを感じた。ヴィヴィアンはまた貞節の価値を信じたが、バーネイはそれに同意することには気が進まなかった。1901年、バーネイがワシントンD.C.にいる家族を訪問している間、ヴィヴィアンは彼女の手紙に返事を出すのをやめた。バーネイは幾年間にもわたって彼女を取り戻そうとし、あるとき友人であるオペラティック・メゾソプラノのエンマ・カルヴェを説得してヴィヴィアンの窓の下で歌わせ、彼女はバルコニーにいるヴィヴィアンに花束に巻いた詩を投げ上げたが、花も詩もどちらも女性家庭教師によって横取りされ、返された。 1904年、彼女は『Je Me Souviens』(『わたしは憶えている』)を書いたが、これは、ヴィヴィアンを取り戻そうと企てて、彼女あてに贈られたたった一通の自筆の、ふたりの関係に関する、強烈に個人的な散文詩である。ふたりは和解し、連れだってレスボス島に旅行し、短い間ふたりで幸福に暮らし、伝承ではサッポーが約2500年前に設立したような、女性のための詩の学校を始めることを語り合った。しかしながら、ヴィヴィアンはまもなく恋人のエレーヌ(ツイレン・ド・ニーヴェルト男爵夫人(the Baroness de Zuylen de Nyevelt))から手紙を受け取り、エレーヌと会って別れを切り出すことを考えながらコンスタンティノープルに行った。ヴィヴィアンはのちにパリでバーネイに会う計画であったが、そのかわりに男爵夫人の家に滞在し、今度は永続的に破局した。 ヴィヴィアンの健康はこののち急速に衰えた。ヴィヴィアンの友人で隣人のコレットによれば、彼女はほとんど何も食べず、大酒を飲み、酒臭さを消すために香りをつけた水で口をゆすぐことをさえした。コレットの記述から、ヴィヴィアンが神経性無食欲症だったとする一部の説があるが、この診断は当時存在しなかった。ヴィヴィアンはまた鎮静剤である抱水クロラールの依存症を持っていた。1908年、彼女はアヘンチンキの過剰摂取のよる自殺未遂をし、翌年、死去した。50年後に執筆された回想録でバーネイはこう書いている。「彼女を救おうとしても救うことはできなかった。彼女の人生は、長い自殺であった。すべてのものが、彼女の両手の中では塵と灰になった。」。
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