ヨアヒムスタール・ギムナジウムとは? わかりやすく解説

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ヨアヒムスタール・ギムナジウム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 07:25 UTC 版)

ヨアヒムスタール・ギムナジウム
学校創始者のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒ
カイザアーレ時代の校舎
1894年の地図

ヨアヒムスタール・ギムナジウム (: Joachimsthalsches Gymnasiumまたは、: Joachimsthaler Gymnasium) は、1607年ドイツブランデンブルク州ヨアヒムスタールに設立された、才能ある少年たちのためのエリート寄宿学校ドイツ語版である。1636年から1912年まではベルリンに、1912年以降はテンプリンに所在していた。

テンプリンのギムナジウム1956年に閉校となり、建物は1996年まで別の用途に使用された。その後2021年頃まで空き家となり、老朽化の危機にさらされていた。2013年には「ヨアヒムスタール校テンプリン支援協会 (: Förderverein Joachimsthalsches Gymnasium Templin) 」が設立され、2016年には「ヨアヒムスタール校テンプリン建築群財団 (: Stiftung Gebäudeensemble Joachimsthalsches Gymnasium Templin) 」が設立され、同年より建物群の所有者となっている。2020年からは建物の修復作業が進められており、これらの歴史的建造物は文化財保護ドイツ語版の対象となっている。

沿革

1601年から1636年の創設期

教育機関の創設者であるブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは、1601年ザクセン君主学校ドイツ語版を手本として、エーベルスヴァルデ近郊のヨアヒムスタール狩猟館に才能ある少年たちのためのエリート校を設立する計画を立てた[1]。 この学校は、キリスト教的かつ人文主義的な理念に基づいて意図的に設計・運営され、少年たちを大学進学に向けて教育し、国家および教会の職務において有能な人材となるよう育成することを目的としていた。

ヴィアドリナ大学ドイツ語版の学部長クリストフ・ペラルグスドイツ語版、宮廷説教師ヨハネス・フレックドイツ語版、そして宮廷説教師であり監督官でもあったジーモン・ゲディケドイツ語版らとともに、学校の構想が練られた。

1607年8月23日8月24日、学校は「選帝侯ギムナジウム (: Gymnasium Electorale Brandenburgium in valle Joachimica) 」の名のもとにヨアヒムスタールで盛大に開校された。 当初、学校には170名分の生徒枠が設けられ、そのうち120名は授業料免除の奨学生枠であった[2]

1656年 ベルリン移転

三十年戦争の最中の1636年1月6日に校舎が破壊され、生徒と教師たちはベルリンへ避難した。1647年頃、ベルリン大聖堂が所有する建物 (ブリューダー通り (: Brüderstraße) と宮殿広場の角) にて授業が再開されたが、ヨアヒムスタール校はこの建物を改革派のケルン校と共有しなければならなかった。

1649年にはフィンク邸が購入されたが、十分な広さがなかったため、選帝侯は宮殿南部にある高等裁判所室の地下空間も提供した。 その後、シュプレー川の橋付近、ゲオルゲン通りドイツ語版とハイリッヒガイスト通り (: Heiliggeiststraße) の南西角にある建物(ブルク通りドイツ語版のロホウ邸 <: Rochowsche Haus> )が購入され[3]1668年に学校はこの建物へ移転した。

しかしこの建物もすぐに手狭となり、1688年以降、学校はハイリッヒガイスト通りの別の建物へ移転した[1]。この建物は1800年頃に「5番地」の住所を与えられた。なお、この通りは現在ではシュパンダウ通りドイツ語版に並行する一部のみが残っている。

灰色修道院のギムナジウムドイツ語版」にちなんで、この学校は「聖霊ギムナジウム (: Gymnasium zum Heiligen Geist) 」という愛称で呼ばれるようになった。

学校の運営費を賄うため、選帝侯は複数の基金資産を学校に与え、それらをもとに5つの「アムト(管轄区)」が設けられた。これらは後に「学校管轄区(Schulämter)」と呼ばれるようになり、18世紀以降は賃貸運営されていた。

  • ヨアヒムスタール学校管轄区ドイツ語版(後に所在地にちなんでゴルツォウ学校管轄区 (: Schulamt Golzowとも呼ばれた。)
  • ブランケンブルク学校管轄区ドイツ語版
  • ノイエンドルフ学校管轄区ドイツ語版
  • ゼーハウゼン学校管轄区ドイツ語版
  • ダンベック学校管轄区ドイツ語版

1707年 王立へ

1707年、創立100周年を記念して、プロイセン王フリードリヒ1世は旧ヨアヒムスタール校に名誉称号「王立ヨアヒムスタール校 (: Gymnasium Regium Joachimicum) 」を授与した。 1739年にはヴィルヘルム・ハインリヒ・フォン・トゥーレマイアードイツ語版が校長に就任した。 その息子フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・トゥーレマイアードイツ語版は、1811年にこのギムナジウムに約5000〜6000冊の書籍と、貴重な楽譜コレクションを寄贈した[4]

1880年 カイザーアレー移転

1880年、ヨアヒムスタール校は当時のカイザーアレー (: Kaiserallee1-12番地 (現在のブンデスアレードイツ語版) に新築された校舎へ移転した。この現存する建物は、1876年から1880年にかけて建築家ルートヴィヒ・ギールスベルクドイツ語版 (1824年 - 1883年) がヨハン・ハインリヒ・シュトラックドイツ語版 (1805年 - 1880年) の設計に基づき、前面にはアーケードテラスが設置されていた。外観はイタリア・盛期ルネサンス様式を模しており、カルル・フリードリッヒ・シンケルの建築伝統に連なるもである。

このギムナジウムは、ベルリン中心部ドイツ語版から当時の郊外の理想的な教育環境への移転であった。学校はファザーネンプラッツドイツ語版までに広がる敷地を占有し、複数の校舎、教師・生徒用の宿舎、体育館などを備えていた。 1880年の開校式には皇帝ヴィルヘルム1世が出席し、その豪華な設備に感動した。

1882年には、外観デザインドイツ語版砂岩製の装飾彫刻が施され、マックス・クラインドイツ語版 (1847年 - 1908年) [5]の設計によるプラトンアリストテレスの立像(それぞれ1500キログラム)が二つの壁龕に設置された。破風の頂部には三体の彫像が置かれ、中央像は2250キログラム、両端のグリフォン像 (それぞれ1,000キログラム) がアクロテリオンドイツ語版としてこの建物の装飾性を高めていた[6]

1901年、教授のオットー・シュレーダードイツ語版は上級生に「ジーゲスアレードイツ語版」に関する作文を書くよう指示した。主題は「ジーゲスアレーにある記念像の足の構え (: Die Beinstellung der Denkmäler in der Siegesallee.) 」であった。 生徒たちは石像の君主たちの足の位置からその性格を推測するという課題に取り組んだ。 このうち4編の作文は歴史的な意味を持つこととなり、ヴィルヘルム2世に献上され、教師による評価とは別に。皇帝直々のコメントが加えられた[7]

1890年頃から、この校地周辺にはベルリン西部の新しい市街地が形成され始めた。 そのため1905年には、再びベルリン近郊から移転することが決定され、学校名の由来でもあるヨアヒムスタールへの帰還が計画された。 ヨアヒムスタール市当局との間で、40モルゲン (約10ヘクタール) の敷地を提供して新校舎を建設することが合意され、費用はヴィルマースドルフにある校地の売却によって賄う予定だった[8]

ヴィルマースドルフ校については以下のような詳細が記録されている。 専門家による評価額は435万金マルク(現在の購買力に換算すると約3362万ユーロ)[9]。 敷地面積は約15モルゲンで、カイザーアレーに面した正面は330メートル、校舎本館は150メートルの長さでウィングが付属していた。 シャーパー通り、ファザーネンプラッツ、マイエロット通りには、教師住宅、管理棟、事務棟など8棟の付属建物があった[10]

しかしこの計画は実現せず、学校側はテンプリンを新たな移転先として選び、1912年に移転が行われた。

ヴィルマースドルフの建築群は1919年にヨアヒム・フリードリヒ・ギムナジウム (: Joachim Friedrich Gymnasium) へ譲渡され、1920年以降はヴィルマースドルフ区役所 (: Bezirksamt Wilmersdorf) の施設として使用された。 第二次世界大戦中に大きな被害を受けたが、その後再建され、21世紀以降はベルリン芸術大学の音楽学部がこの地に置かれている。

隣接するゲルハルト・ハウプトマン緑地 (: Gerhart-Hauptmann-Anlage) は、2005年の高層ビル建設計画が企画されたが未開発のままである。 この緑地は、ベルリン・フェストシュピーレドイツ語版 (旧:自由民衆舞台ドイツ語版) と、現在は保育園となっている旧教師住宅に隣接している。 ここに設置されたゲルハルト・ハウプトマンのブロンズ胸像はフリッツ・クリムシュによるもので、1966年6月6日に除幕された。

1912年 - 1956年 テンプリン移転

1912年、同校はウッカーマルク県ドイツ語版のテンプリンに移転した。

テンプリンに新築された校舎は、校長アウグスト・ネーベ(: August Neb) と建築家フリッツ・ブロイニンクドイツ語版によって共同で設計され、寄宿舎附属学校ドイツ語版として建設された。

各寄宿舎には最大25名の寄宿生が居住していた。各棟には一戸建ての独立した建物が併設されており、そこには上級教師 (: Studienrat) が家族とともに暮らしていた。そこに住む上級教師は寄宿舎の責任者であった。

さらに、補助教員 (: Adjunkt) と女性の寄宿舎監督官が寄宿生の生活全般を世話し、少年たちの日常生活が規則正しく営まれるよう配慮していた。

同校は、テンプリンに独自の福音派教会共同体を持つ、キリスト教・人文主義的な教育財団であった。

国家社会主義時代ドイツ語版には、学校運営陣は政権側にいくつかの譲歩を強いられ、生徒の日常生活にもその影響が及んだ。1943年頃には、特に最後の校長が解任された後、政権側はこの学校を「第三帝国の教育施設」へと転換しようと試みた。

1945年の戦争終結後、校舎はまず赤軍の軍用病院として使用された。病院が移転された後は、ソ連の戦車部隊が短期間この施設を使用した。教育者オットー・データー(: Otto Deter) は[11]、できるだけ早く授業を再開できるよう尽力し、校長として任命された。彼の働きにより、1945年11月にはヨアヒムスタール校での授業が再び開始されることとなった。

1947年4月28日に決定されたヨアヒムスタール校教育財団の定款は、同年5月1日に発効し、教育活動の新たな法的基盤となった。 この定款により、同校は「公法上の教育財団ドイツ語版」として位置づけられた。

代表権を持つのは「理事会 (: Kuratorium) 」であり、定款によれば最低3名のメンバーで構成される必要があった。 テンプリンのヨアヒムスタール校教育財団の理事会には、ブランデンブルク州政府から政務局長クルト・グリューンバウムドイツ語版が初代議長として参加し、他のメンバーには財務大臣ヴァルター・クンツェドイツ語版、国民教育・科学・芸術省の局長ヴィルヘルム・ハルトケドイツ語版が名を連ねた。

理事会議長の代理には、当時の校長オットー・データーが任命され[12]、彼の退任後は校長アルトゥール・シャルメンケがその役を引き継いだ。 さらに、テンプリン出身の工学士と、業務執行理事が理事会を構成するメンバーとして加わった[13]

中庭に設置されていた創設者、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒの青銅像は、1950年3月4日に撤去・搬出された。

財団の解散は1956年に行われた。 建物は1956年から新設された教員養成研究所として使用され、1988年からは幼稚園教諭養成専門学校、1990年から1996年までは社会教育専門学校として利用された。

ドイツ再統一後に設立された連邦州のブランデンブルク州が、この不動産の所有者となった。2007年、同州は水辺と運動場を含む13ヘクタールの敷地を150万ユーロで競売にかけた。 落札者はベルリンの不動産業者クリスティアン・コルベ(: Christian Kolbe) であった。

その後、再利用に向けたさまざまな構想が立てられたが、当時設けられていた変更禁止令が解除されたにもかかわらず、いずれも実現には至らなかった。 新たな教育機関の設立も目指されたが、適切な学校運営主体が見つからなかったため、実現できなかった。

テンプリンの校舎は1996年以降使用されておらず、空き家となっているため、現在では破壊行為や老朽化の危機にさらされている。 修復および投資にかかる費用は、1,600万〜3,200万ユーロと見積もられている[14]

2005年 私立ギムナジウムの設立と名称の継承

2005年から2006年度の新学期に、ヨアヒムスタールに私立の全日制ギムナジウムが設立された。この学校は、歴史あるヨアヒムスタール校の伝統を継承することを掲げ、「自由ヨアヒムスタール校 (: Freies Joachimsthaler Gymnasium) 」という名称を採用した[15]

この新しい教育機関は、学校運営団体である労働者・サマリタ人連盟ドイツ語版、バルニム郡支部 (: Kreisverband Barnim e. V.) によって設立され、教育活動を開始した。

2009年から2010年度には、単一学級制のこのギムナジウムが上級中等教育課程ドイツ語版に到達した。 同時に、新しくより近代的な校舎の建設が始まり、2010年から2011年度には生徒たちが新校舎へ移転した。

この学校には7年生から12年生までのすべての学年が設置されており、各クラスの最大人数は20名である。

2014年以降 テンプリンにおける「ヨーロッパのための学校」としての建築群の再生

2016年に設立された「テンプリン・ヨアヒムスタール校建築群財団」は、無償の理事会と財団チームによって構成されており、教育学と建築分野の専門家、および無償の諮問委員会の支援を受けて活動している。 この財団は、文化財として保護されている建築群の所有者でもあり、テンプリンに本部を、ベルリンにプロジェクト事務所を構えている。

財団の目的は、かつてのヨアヒムスタール校の敷地に、寄宿制を備えたヨーロッパ志向の学校を設立することである。 この取り組みは、すでに2014年に設立された「テンプリン・ヨアヒムスタール校支援協会」によって支援されている。

テンプリンの「ヨーロッパのための学校」では、ヨーロッパ各国から集まった若者たちが「小さなヨーロッパ」を体験することになる。 彼らはヨーロッパ的理念のもとで成長し、ヨーロッパ精神の本質――歴史、文化、多様性――を学ぶ。この学校は、テンプリンやウッカーマルク地域の人々と多様な活動を通じてつながり、西欧と東欧を結ぶ架け橋となることを目指している。 その教育の中心には、未来志向かつ革新的な教育理念が据えられている。

この学校には、約450名の生徒が通う予定であり、そのうち約3分の1が地域出身、残りの約3分の2がヨーロッパ各国からの生徒となる見込みである。奨学金制度と所得に応じた授業料制度によって、生徒構成のバランスが保たれるよう配慮されている。 部分的な開校(まずは上級学年から)は、2029年 - 2030年度の新学期に予定されている。

この建築群は、2019年に国家的に価値ある文化財として認定された。2020年には、ドイツ連邦議会の予算委員会が3,000万ユーロの補助金を、既存建物の文化財保護に配慮した修復のために承認した。翌年には連邦資金の支援により修復工事が開始され、2022年からは州の資金も加わり、屋根の修復作業が進められた。さらに2022年には、ブランデンブルク州が追加で2,000万ユーロを、歴史的建築の修復に充てるために拠出した。 2023年には、学校の基本構想に基づいた改訂版の建築マスタープランが完成した。

基本理念・標語・校歌・伝統の継承

キリスト教信仰は、創立当初からこの学校の根幹を成すものであった。1607年に制定された主要な校則の第一条は、講堂に掲示されていたもので、次のように記されていた:

「Pietatem ante omnia – quia sine, omnis sophia est panurgia – studiose colant et perpetuo cogitent, sapientiae initium esse timorem Dei」

これはドイツ語訳で「何よりもキリスト教信仰(単なる敬虔さではなく)を重んじよ。信仰なくしては、すべての知恵は偽りである。生徒たちは熱心に信仰に努め、常に『神への畏れこそが知恵の始まりである』と心に留めるべきである」である。

ヨアヒムスタール校の標語は「Dic cur hic」(「なぜ君はここにいるのか」「なぜ君はこの地上にいるのか」)であり、これはルター派人文主義者ヨハン・ミヒャエル・モシェロシュドイツ語版によって提唱された言葉である[16]

ヨアヒムスタール校には独自の校歌も存在する(ヨアヒムスタールの歌:「われらヨアヒムスタールの少年たち…」)。 作詞者はオットー・シュレーダーで、1875年から1910年まで教授・補助教員・上級教員として同校に勤務していた人物である。 この歌は、パレード行進曲第1番(軍隊行進曲III/51、メレンドルフ)のトリオの旋律に合わせて歌われる。

卒業生たちは「旧ヨアヒムスタール校友会(Vereinigung Alter Joachimsthaler e. V.)」を結成しており、会誌として『Alma Mater Joachimica』を発行している。「Stall(家畜小屋)」は、生徒たちの間で親しまれていた、伝統ある愛称である。

参考文献

  • Ernst Bahn ほか『Zur Statistik des Königl. Joachimsthalischen Gymnasiums』Buchhandlung des Waisenhauses、ハレ(ザーレ)、1907年。インターネットアーカイブzurstatistikdes00bahngoog
  • Jonas Flöter: 『Das Joachimsthalsche Gymnasium. Fürstenschule der Hohenzollern – Humanistisches Gymnasium – Bildungsstätte von Eliten』『Historische Bildungsforschung Online』07/2007。
  • Jan Feustel「Alma mater Joachimica」『Die Mark Brandenburg』第63号、Großer、ベルリン、2006年。ISBN 3-910134-22-X
  • Jonas Flöter、Christian Ritz(編)『Das Joachimsthalsche Gymnasium. Beiträge zum Aufstieg und Niedergang der Fürstenschule der Hohenzollern』Klinkhardt、Bad Heilbrunn、2009年。ISBN 978-3-7815-1655-7
  • Hermann Franck『Wenn Du dies liest…』Tagebuch für Hugo、Hanser、ミュンヘン、1997年;dtv、ミュンヘン、2000年(19世紀中頃の学校生活について)。
  • 『Nachricht von dem Königl. Joachimsthalschen Gymnasium』ベルリン、1848–1851年
  • Siegfried Joost『Das Joachimsthalsche Gymnasium』ヨアヒムスタール・ギムナジウム創立375周年記念祝典記念誌(1982年8月24日)、Wittlich、Knoop、1982年。
  • Heinz Wegener『Das Joachimsthalsche Gymnasium – Die Landesschule Templin. Ein Berlin-Brandenburgisches Gymnasium im Mahlstrom der Deutschen Geschichte 1607–2007』Berlin Story、ベルリン、2007年。ISBN 978-3-929829-62-4
  • Erich Wetzel『Festschrift zum dreihundertjährigen Bestehen des Königl. Joachimsthalschen Gymnasiums am 24. August 1907』王立ヨアヒムスタール・ギムナジウム創立300周年記念祝典記念誌、Buchhandlung des Waisenhauses、ハレ(ザーレ)、1907年。インターネットアーカイブdiegeschichtede01wetzgoog
  • 「Der Neubau des Königlichen Joachimsthalischen Gymnasiums in Templin (Uckermark)」『建築雑誌』1913年、第7号、365–376頁。図版:第39–43表
  • Lothar Müller「Europa in Brandenburg: Denkmal mit Zukunft」『南ドイツ新聞』2020年9月30日。sueddeutsche.de(2020年10月22日閲覧)

脚注

  1. ^ a b Tobias Schwinger: Die Musikaliensammlung Thulemeier und die Berliner Musiküberlieferung in der zweiten Hälfte des 18. Jahrhunderts. Ortus-Musikverlag, Beeskow 2006, ISBN 3-937788-08-5, S. 389.
  2. ^ EU-Projekt.
  3. ^ Dic Cur Hic (Sag, warum du hier bist). Ausstellungskatalog der Uni Leipzig anlässlich des 400-jährigen Bestehens des Joachimsthalschen Gymnasiums. Berlin 2007, S. 21.
  4. ^ Tobias Schwinger: Die Musikaliensammlung Thulemeier und die Berliner Musiküberlieferung in der zweiten Hälfte des 18. Jahrhunderts. Ortus-Musikverlag, Beeskow 2006, ISBN 3-937788-08-5, S. 382.
  5. ^ Charlottenburg-Wilmersdorf von A bis Z (PDF; 144 kB) holgergiersberg.online.de; abgerufen am 21. Dezember 2012.
  6. ^ * F. Kleinwächter: 『Bewegliches Versetz-Gerüst』『Zentralblatt der Bauverwaltung』1883年、第32号、288–289頁。ZLB: 295
  7. ^ Helmut Caspar: Die Beine der Hohenzollern. Was Primaner des Joachimsthalschen Gymnasiums über die Siegesallee schrieben und was Wilhelm II. von den Aufsätzen hielt. Berlin Story, Berlin 2007, ISBN 978-3-929829-58-7.
  8. ^ Verlegung des Joachimsthalschen Gymnasiums. In: Berliner Tageblatt, 29. August 1905.
  9. ^ Das Joachimsthalsche Gymnasium” (ドイツ語). Berliner Volkszeitung (1906年5月2日). 2021年4月12日閲覧。 “Ueber die Erwerbung des Joachimsthalschen Gymnasium durch die Gemeinde Wilmersdorf gibt jetzt die Gemeindeverwaltung eine amtliche Erklärung, in der es heißt, daß das an der Kaiserallee belegende Grundstück des Joachimsthalsches Gymnasium von der Gemeinde für 4,350,000 Mark käuflich erworben worden ist.”
  10. ^ Das Gelände des Joachimsthalschen Gymnasiums. In: Berliner Tageblatt, 31. August 1905.
  11. ^ Studienrat Otto Deter, Anstellung am Reformrealgymnasium in Templin 1930/1931, abgerufen am 16. Januar 2025.
  12. ^ Horst Leweling: Ein preußischer Lehrer: August Nebe (1864–1943) Einblicke in sein Leben und Wirken. Norderstedt 2014, ISBN 978-3-7357-0868-7, S. 56.
  13. ^ Heinz Wegener: Das Joachimsthalsche Gymnasium – Die Landesschule Templin. Ein Berlin-Brandenburgisches Gymnasium im Mahlstrom der Deutschen Geschichte 1607–2007. Berlin Story, Berlin 2007, ISBN 978-3-929829-62-4, S. 202 ff.
  14. ^ Lothar Müller: Kokoschkins Schule. Ein Besuch auf dem Gelände des ehemaligen Joachimsthalschen Gymnasiums in Templin. In: Süddeutsche Zeitung, 10. Oktober 2012, Feuilleton, München S. 13, Bayern S. 13.
  15. ^ “Freies Joachimsthaler Gymnasium”. freies-gymnasium.de (Website der Schule). 2022年3月12日閲覧.
  16. ^ Johann Michael Moscherosch” (ドイツ語). zitate.eu. 2021年6月26日閲覧。



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