モンスーン戦隊として派遣されたUボートの第1波
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「モンスーン戦隊」の記事における「モンスーン戦隊として派遣されたUボートの第1波」の解説
基地の設置とともに、12隻の潜水艦が「モンスーン戦隊(Gruppe Monsun)」に配属され、ペナンに向かう間に連合国の交易路を哨戒するよう命令を受けた。戦隊名にはひとつの意味があり、インド洋におけるUボートの作戦は、モンスーンの時期と重なる形で開始されることになっていた。同作戦が進行する中、イタリアが連合国と講和する。イタリアの潜水艦、「アミラリオ・カーニ」はペナンへの航行を続けるよりも、南アフリカのダーバンで降伏することを選んだ。輸送用に改装されたイタリアの潜水艦(複数)は、ドイツ海軍に接収されて「UIT(数字)」の名前が付けられた。 「U-200 (U-200) 」は1943年6月11日に出航し、6月24日にアイスランド近海でPBYの攻撃を受け、撃沈された。 「U-514 (U-514) 」は1943年7月3日に出航し、7月8日にビスケー湾でイギリス空軍第224飛行隊に所属するB-24の攻撃を受け、撃沈された。 「U-506 (U-506) 」は1943年7月6日に出航し、7月12日にビスケー湾でアメリカ陸軍第1飛行隊に所属するB-24の攻撃を受け、撃沈された。 「U-509 (U-509) 」は1943年7月3日に出航し、7月15日に護衛空母「サンティー」の艦載機の攻撃を受け、撃沈された。 「U-516 (U-516) 」は1943年7月8日に出航したが、ミルヒクー(潜水補給艦)を撃沈された僚艦へ哨戒を継続できるよう、燃料を譲渡した後に帰投している。 「U-847」は1943年7月29日に出航したが、デンマーク海峡で流氷と衝突して損傷し、北大西洋で僚艦に燃料を譲渡した後、8月27日に護衛空母「カード」の攻撃を受け、撃沈された。 「アミラリオ・カーニ」は戦闘用の艤装で1943年7月初頭に出航したが、本国のイタリアで停戦が発効した同年9月8日に降伏した。 「U-533 (U-533) 」は1943年7月6日に出航し、10月16日にアデン湾でイギリス空軍第244飛行隊に所属するブリストル・ブレニムの攻撃を受け、撃沈された。 「U-183 (U-183) 」は1943年7月3日に出航し、同年10月27日にペナンに到着した。その2年後、ジャワ海でアメリカ海軍の潜水艦「ベスゴ」に撃沈されている。 「U-188 (U-188) 」は1943年6月30日に出航し、同年10月31日にペナンへ到着するまでにアメリカのリバティー船「コーネリア・P・スペンサー」(Cornelia P. Spencer、7200トン)を撃沈した。 「U-532 (U-532) 」は1943年7月3日に出航し、ノルウェーおよびインドの貨物船各1隻と、イギリスの貨物船2隻を撃沈した後の同年10月31日にペナンに到着した。 「U-168 (U-168) 」は1943年7月3日に出航し、イギリスの貨物船「ハイチン」(Haiching、2200トン)を撃沈した後の同年11月11日にペナンに到着した。 輸送中の損害を補うため、モンスーン戦隊の第2波がヨーロッパから派遣されている。 「U-219」は機雷敷設の任を帯びて1943年10月22日に出航したが、北大西洋で僚艦に燃料を譲渡した後の1944年1月、フランスに帰投している。 「U-848」は1943年9月18日に出航し、同年11月5日、南大西洋でアメリカ海軍のPB4Yの攻撃を受け、撃沈されるまでにイギリスの貨物船「バロン・センプル」(Baron Semple、4,600トン)を撃沈している。 「U-849」は1943年10月2日に出航し、11月25日に南大西洋でアメリカ海軍のPB4Yの攻撃を受け、撃沈された。 「U-850」は1943年11月18日に出航し、12月20日に護衛空母「ボーグ」の艦載機の攻撃を受け、撃沈された。 「U-510 (U-510) 」は1943年11月3日に出航し、1944年5月5日にペナンへ到着するまでにイギリスのタンカー「サン・アルヴァロ」(San Alvaro、9200トン)とアメリカの貨物船「E・G・スーバート」(E.G.Seubert)その他3隻を撃沈した。
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