メンギスツ失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
メンギスツは自らの「エチオピア労働者党」による一党支配を変えることはなかったが、戦況を見て「エリトリアの優遇」「地方の自治共和国化」「エチオピア人民民主共和国への改称」といった妥協案を提示し、1987年の占拠において憲法を改正すると議会からの指名により大統領に就任する。しかし、その間にもソ連がペレストロイカによって支援の打ち切りの検討を始め、代わりの援助を求めてアメリカを頼ったが、アメリカは人権と民主主義の実現を求めてむしろ反政府勢力への支援を増やした。1988年アスマラに篭っていたエチオピア軍が、エリトリア独立を求めるEPLFの攻撃によって決定的な敗北を喫した。EPLFの動きは、エチオピア北部のティグレ人たちに影響を与え、「ティグレ人民解放戦線 (TPLF)」が結成され、ティグレとウォロを地盤に民主化を求めて蜂起すした。1989年にはショワにまで進出し、エチオピア人の40%を占めるようになっていたオロモ人たちのオロモ人民民主機構 (OPDO)も加わって三組織合同のエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)が結成された。ソ連がメンギスツ政権への援助を完全に打ち切った1989年、EPRDFはエチオピア政府軍への攻勢を開始した。 1991年2月13日、ゴンダルとゴジャムに駐屯していた政府軍がEPRDFの攻撃によって完全に壊滅してもはや反撃は不可能な事態となり、メンギスツ政権の命運は尽きた。しかし、メンギスツはこの際に3,400人のティグレ人をEPRDFの関係者として処刑した。この結果メンギスツ政権はますます人心を離反させただけに終わり、EPRDFの呼びかけによってメンギスツを見捨てる都市があらわれ、反政府勢力に拠点を与えるとともに首都への進軍を可能とした。1991年5月にはメンギスツ政権にとどめを刺すワレリグン作戦が成功を収め、メンギスツ大統領はジンバブエに亡命し、16年に及ぶ独裁政治の終止符が打たれた。
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