メンギスツの独裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「メンギスツの独裁」の解説
独裁の体制を整えたメンギスツは、より盤石な体制を築くために全エチオピア社会主義運動 (MEISON)に接近し、同じ社会主義者の「エチオピア人民革命党 (EPRP)」への攻撃を始めた。両党はともに社会主義政党で、メンギスツらの軍部が政治をコントロールする事態を嫌っていたが、メンギスツの社会主義者という自称を信じきってしまっていたMEISONは政治の安定まで軍部の力をある程度利用することは仕方がないと割り切り、協力体制をつくった。MEISONの協力は後に1986年4月に開校するマルクス・レーニン主義の幹部を養成する機関「イェカティ66イデオロギー校」の設立に繋がった。しかし、そこで教育される内容は共産主義ではなく、ソ連型の一党独裁体制の確立の必要性であった。MEISONは1977年8月に協力関係を解消している。 メンギスツは1977年2月3日、PMAC議長のタファリ・ベンティを粛清した後、自ら議長に就任した。これにより権力の絶頂期に達したメンギスツはエチオピア人民革命党 (EPRP) を徹底的に排除する決意を固め、EPRPの脅威と反社会性について大キャンペーンをはった。これにより、メンギスツは自らに反対するPMAC内部の右派とともにEPRP狩りを開始し、EPRPのメンバーとされた人物は即座に逮捕され処刑されていった。かつて協力関係にあったMEISONもEPRPと同一視されて次々と投獄されていった。五月上旬の数日間で20,000人が殺害されたとされ、政府の寡少な見積もりでも732人の死亡が確認されている。これら、EPRPに対する攻撃は「白色テロル」と呼ばれたが、対抗したEPRPの反撃は「赤色テロル」と呼ばれ、エチオピアは事実上の内戦状態に陥った。アディスアベバだけで1万人が赤色テロルによって殺害されたが、政府による白いテロルはEPRPと疑われた人々を中心に3万人以上を収容所に押し込め、次々と死亡させていった。これにより、この時代のエチオピアの青年、インテリ層はイタリア侵攻と同様に大きな空白を生じることになった。EPRPはメンギスツの攻撃を地方に逃れて活動を続けたが、MEISONは根絶やしに近い被害を受けてその後二度と党勢を取り戻すことはできなかった。
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