メイナード・ソロモンの「不滅の恋人」説
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「アントニー・ブレンターノ」の記事における「メイナード・ソロモンの「不滅の恋人」説」の解説
詳細は「不滅の恋人」を参照 アメリカ合衆国のベートーヴェン学者であるメイナード・ソロモンは1972年発表の「New Light on Beethoven's Letter to an Unknown Woman(氏名未詳女性宛てベートーヴェン書簡への新たな光)」と題した論文上、および補遺となる1977年の評論「Antonie Brentano and Beethoven(アントニー・ブレンターノとベートーヴェン)」において、アントニーがベートーヴェンの「不滅の恋人」であると発表した。 ソロモンの仮説は長く支持を集めたが、ゴルトシュミット、ベアーズ、トーマス=サン=ガリ、アルトマン、テレンバッハらにより広く疑念を突き付けられる。ソロモン自身も根拠がせいぜい状況証拠にとどまることを認識していた。ベートーヴェンはアントニーの夫と親密な友人関係を築いており、これをベートーヴェンの道徳規範に照らすと彼が友人の妻と恋愛関係にあったとは考えにくい。加えて、ブレンターノ夫妻の関係がソロモンの趣旨に合うような不仲ではなかったという確かな証拠がある。 「不滅の恋人」として可能性がある他の候補にはテレーゼ・ブルンスヴィック(1775年-1861年)、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779年-1821年)、マリー・フォン・エルデーディ(1779年-1837年)、歌手のアマーリエ・ゼーバルト 、ジュリエッタ・グイチャルディ(1782年-1856年)らがいる。 ようやく近年になってソロモンのアントニー仮説が最終的にして徹底的な反論を受けるに至った。この長年の疑問への答えはベートーヴェンの有名な手紙の第2の部分に既に見出すことが出来る。 「月曜日 - 木曜日 - これらの日にだけ郵便馬車がここからKに向かいます。」 「貴女が私からの最初のメッセージを手にするのはおそらく土曜日以降となるでしょう。」 ベートーヴェンがこれを記したのは7日火曜日のテプリツェであり、アントニー・ブレンターノが同時期に「K」(カルロヴィ・ヴァリ)にて数週間の逗留中であったことをよく知っていた。テプリツェからカルロヴィ・ヴァリの100kmの道のりであれば、郵便馬車はわずか1日しか要しない。従って、もし手紙がアントニーに宛てられたものであれば彼女は最低でも金曜日の午前にこれを受け取ることになる。しかし、もし宛先の人物がその手紙を「おそらく」土曜日以前に受け取らないとベートーヴェンが考えたのであれば、その人物は西へテプリツェから2日、カルロヴィ・ヴァリからさらに1日の場所にいなくてはならない。次の大きな都市はエゲルで、カルロヴィ・ヴァリから約50kmの位置にある。その次はさらに10km離れたフランチシュコヴィ・ラーズニェ(英語版)である。今やアントニーが除外されることは確実である。オーストリアの皇帝が1812年7月5日に一時フランチシュコヴィ・ラーズニェにおり、ヨゼフィーネの最初の夫が皇帝と私的な友人であることを考え合わせると、ベートーヴェンと7月3日、4日に会っていたヨゼフィーネが同地で夫に会おうとしていたと考えると辻褄が合う。
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