ミニドカ戦時移住センター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 16:37 UTC 版)
「ミツエ・ヤマダ」の記事における「ミニドカ戦時移住センター」の解説
1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られることになった。立ち退きまでのわずか数日の間に家財を隣家に預け、荷物をまとめた。母ヒデ、長男マイク、二男トッシュ、三男ジョー、そしてミツエはピュアラップ (ワシントン州) のキャンプ・ハーモニーへ送られた。キャンプ・ハーモニーは主にシアトルとアラスカの住民が最初に送られた集合所(仮収容所)である。マイクは結核を病んでいた。トッシュは収容所内の病院で働き、ヤマダは託児所で働いた。末子のジョーはまだ9歳であった。数か月後に今度はハント (アイダホ州)(英語版) のミニドカ戦時移住センターに送られた。トッシュはここでも病院に勤務した後、一時期だが、甜菜(テンサイ)農場で働く許可を得た。ミツエは病院で看護師の助手を務めた。 1943年にルーズベルト大統領が日系アメリカ人のみの部隊を結成すると発表した。マイクは、米軍への従軍の意思を問う質問27と米国に忠誠と日本への忠誠放棄を問う質問28のいずれにも「ノー」と答えた「ノー・ノー・ボーイ」であり、収容所に留まることになった。トッシュは白人将校が指揮する第100歩兵大隊(第442連隊戦闘団)に入りたくはなかったが、米国への忠誠を示すことで父が釈放されるかもしれないと考えて志願した。彼は後にフランス戦線で負傷し、イタリアの病院で回復を待って帰国した。 辛い収容所の生活で助けてくれたのはクエーカー教徒であった。ヤマダはトッシュが出征する前に、彼と一緒にキャンプ・ローズバーグに抑留された父に会う機会を得た。案内してくれたのはある牧師夫妻であった。キャンプに着くまで、地元民に気づかれないように、牧師が運転する車の後部座席に隠れていた。2年ぶりの再会であったが、父は変わり果てていた。トッシュの出征については父に話さなかった。この後、父はテキサス州のクリスタルシティ抑留キャンプ(英語版)に送られた。敵性外国人抑留所、家族抑留キャンプとも呼ばれたこの収容所は、アメリカ政府と中南米諸国の政府との取り決めによる捕虜の交換のために、日系人のほか、ドイツ系、イタリア系、日系ペルー人、その他の中南米の日系人を収容するキャンプであり、抑留者との面会が許可されていた。ヤマダは後に、移民帰化局に母とジョーが父に面会するための申請を行い、許可された。 ヤマダが収容所から出る手助けをしたのはボブ・オブライアンというクエーカー教徒である。就学や就職のためであれば、煩雑な申請手続きを踏んで忠誠心が認められると、収容所を出ることが可能であったため、ヤマダはあちこちの大学に願書を送ったが許可されなかった。仕事を探そうにも情報が得られなかった。シンシナティ大学の学生食堂の従業員募集について情報を与えてくれたのがボブ・オブライアンであり、この結果、ヤマダと兄マイクはシンシナティ大学に就職し、収容所から解放された。
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