マルケルとゴダール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:24 UTC 版)
「ベトナムから遠く離れて」の記事における「マルケルとゴダール」の解説
その後も、クリス・マルケルの動きは止まらず、同1967年、フランスのドゥー県ブザンソンの企業ロディアセタ社の大ストライキに際し、マルケルはゴダールとドキュメンタリー作家ブリュノ・ミュエルらともに「メドヴドキン集団」(Les groupes Medvedkine、1967年 - 1973年)を組織、労働者の声と姿をいくつものドキュメンタリー映画に記録した。 1967年、36歳のゴダールもまったく止まらない。1966年に撮影した3本、つまり『メイド・イン・USA』が1月27日、『彼女について私が知っている二、三の事柄』が3月17日、翌月の4月21日にはアンナ・カリーナ最後の主演作『未来展望』を含むオムニバス『愛すべき女・女たち』が矢継ぎ早に公開され、そのころには『中国女』の撮影が行われていた。7月22日には『中国女』に主演した20歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚、8月30日同作の公開と時期を同じくして「商業映画との決別宣言」を発表した。『ウイークエンド』を夏に撮影、秋にはジュリエット・ベルト、ジャン=ピエール・レオと『たのしい知識』を撮影(公開は1969年)、『ウイークエンド』が12月29日に公開された。 翌1968年2月、パリのシネマテーク・フランセーズ館長アンリ・ラングロワが更迭され、それに抗議して、「シネマテーク擁護委員会」を結成。マルケルとゴダール、レネ、イヴェンスといった『ベトナムから遠く離れて』の面々のほか、ジョルジュ・フランジュ、ピエール・カストといったラングロワの側近はもちろん、アレクサンドル・アストリュック、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、エリック・ロメール、フランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、クロード・ベリ、ジャン・ルーシュ、ジャン・ユスターシュら「カイエ」派、ヌーヴェルヴァーグの作家たち、ジャン=ピエール・レオ、クロード・ジャドら俳優、アベル・ガンス、ロベール・ブレッソン、アンドレ・カイヤット、フランソワーズ・ロゼー、ジャン・マレーら映画界の重鎮をも巻き込み、大々的なデモを打った。4月にはこの闘争は勝利を得る。 つづく5月19日、5月10日から開催されている第21回カンヌ国際映画祭の行われている宮殿に、ゴダール、ルルーシュ、トリュフォー、ベリ、レオ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、ロマン・ポランスキー、審査を放棄した審査員ルイ・マルらが乗り込み、上映と審査の中止を求め、映画祭を粉砕した。5月21日には、パリで労働者と学生によるゼネストが起き、いわゆる「五月革命」へと発展してゆく。ゴダールはパリを離れ、D・A・ペネベイカーらとバークレーやニューヨークで『ワン・アメリカン・ムービー』を撮り、ロンドンでローリング・ストーンズと『ワン・プラス・ワン』を撮った。 クリス・マルケル、アラン・レネらと匿名で数分、20数本のアジテーションのための短編映画シリーズ『シネトラクト』を撮ったゴダールは、前年の1967年に出逢い、『中国女』や『たのしい知識』の構想に多大な影響を与えたマオイストでシネフィルのジャン=ピエール・ゴランらと映画製作グループ「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成してゆく。
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