ポンセ来日と布引丸事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 07:10 UTC 版)
「フィリピン独立革命」の記事における「ポンセ来日と布引丸事件」の解説
1898年6月、武器購入のため先述の「革命委員会」から日本に派遣されたポンセ・リチャウコらは、フィリピン独立活動の実情を日本の知識人・政治家に宣伝しつつ犬養毅・宮崎滔天さらに当時滞日中であった孫文と親交を結び、憲政本党代議士・中村弥六が青木周蔵外相や桂太郎陸相を説得して中古武器(村田銃)の買い付けに成功した。この際、武器購入の実現に動いた一部の陸軍軍人(川上操六ら)や在野活動家(浪人)は、台湾の真南に位置するフィリピンがアメリカ領となることは日本の国益を脅かすものであるとし、フィリピン独立と独立派内部での親日派勢力の扶植を希望、フィリピン軍の指導者として日本の軍人・浪人を派遣する計画を立てた。 しかし1899年7月、武器を積み込み日本を出航した布引丸は上海沖で台風にあい7月21日沈没した(布引丸事件)。8月19日にはアメリカに捕らえられたフィリピン軍将校の自白により日本人6名が武器を供給するために戦線を掻い潜って、マニラに潜入していることが発覚し、ただちにアメリカに逮捕される。布引丸の沈没および日本人のフィリピン革命軍参加を察知したアメリカ軍は、日本領事を通じ政府に抗議したため、日米両国からの監視が強化され、また資金が枯渇して武器の購入および輸送は困難となった。さらにアギナルド軍の敗退により、潜入していた日本人もマニラを脱出し帰国したため計画は頓挫し、9月27日ポンセらは失意のまま香港に向け日本を出国した。 その後、1901年にはポンセが日本人向けに書いた独立運動史『南洋の風雲』が翻訳刊行され、翌1902年には、先述の山県悌三郎を通じポンセと親交を持った山田美妙が史伝小説『あぎなるど』を、ポンセの武器購入に協力したキリスト者押川方義を父に持つ押川春浪が「リサール少尉」(実は生き延びていたという設定)を登場人物とする冒険小説『武侠の日本』を刊行するなど、出版界に一大ブームが起こっている。
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