ポテンツァ攻略へ向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 05:51 UTC 版)
「カルミネ・クロッコ」の記事における「ポテンツァ攻略へ向けて」の解説
クロッコは自らが率いる武装集団とボルヘスの軍隊500人と共にラーゴペーゾレを出発。バセント川(イタリア語版)流域の町村では兵員を増強しつつ、トリヴィーニョ(Trivigno)を襲い新政府の国家警備隊をまたたくまに敗走させ、住民を服従させた。マテラ地方に移動して、11月5日にはバセント川左岸の小さな集落カルチャーノ(Caqlciano)、次にガラグーゾ(Garaguso)を襲った。ガラグーソに向う途中で出会った司祭から慈悲を嘆願されるようなこともあり、残虐行為は皆無ではなかったものの、一帯は特別な混乱を招くこともなく占拠された。 翌朝はサランドラ(Salandra)へ。国家警備隊がよく守る村であったが、サヴォイア新政府を憎む地元住民の協力のもとクロッコ一味はこれを手中にする。続いてクラーコ(Craco)、住民の穏やかな嘆願により流血は避けられた。そしてアリアーノ(Aliano)、容易に手中に落ちたのは新政府側が既に逃亡しており、住民が反逆者たちを暖かく迎えたからであった。クロッコらの行動に焦燥を深めたマテーラ地方長官は、ついに歩兵、狙撃兵、国家警備兵の大隊からなる1200人規模の兵力を配備する。闘いはスティリアーノ(Stilgliano)周辺で展開した。予想以上に厳しい闘いとなり、仲間から多くの死者を出したものの、最終的にはクロッコ側が勝利した。これはクロッコの右腕と称されたニンコナンコの援軍のおかげであった。ニンコナンコは僅か100人の手下で思い切った作戦に出て、撤退逃亡する敵軍の隊長を殺害し首を刎ねた(彼は闘争・略奪の際の残忍さで恐れられていた)。 グラッサーノ(Grassano)、グアルディア・ペルティカーラ(Guardia Perticara)、サン・キーリコ・ラパーロ(San Chirico Reparo)、ヴァーリオ(Vaglio)など多くの町村が攻略された。クロッコの軍隊は11月16日ポテンツァの近くまで侵攻していたが、結局ピエトラガッラ(Pietragalla)に向って逃亡せざるをえなかった。何故なら、新政府側に寝返った元ブルボン派がクロッコらの来襲を警告し、金と引き換えに彼らに武器を与えていたからである。11月22日クロッコらはベッラ(Bella)に到着、ルーヴォ・デル・モンテ(Ruvo del Monte)、バルヴァーノ(Balvano)、リチリアーノ(Ricigliano)、ペスコパガーノ(Pescopagano)を占拠した。しかし新政府側がピエモンテからおびただしい数の援軍で増強されると、クロッコはそれ以上の戦闘行為は不能となり、仲間にモンティッキーノ(Montecchnino)の森中に撤退するよう命じた。アジトに戻るとすぐにクロッコは将軍ボルヘスとの関係を絶った。既に勝利に対する自信を失っており、ボルヘスの配下に置かれることを嫌ったためだった。ボルヘスはクロッコの変節を受け入れることはできなかった。彼はブルボン王フランチェスコ2世に会うために部下24名とローマに向った。しかし道中新政府軍の兵隊に捕らえられ、タリアコッツォ(Tagliacozzo)で部下たちと共に銃殺された。
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