ベルギー独立と1831年ベルギー憲法
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ベルギー独立と1831年ベルギー憲法」の解説
「ベルギー独立革命」も参照 現在のベルギーにあたる低地地方南部は、第一共和政期のフランス革命戦争において対オーストリア戦に勝利したフランスに占領され、カンポ・フォルミオ条約によってフランスへの併合が決まった。ナポレオン帝政の時代にはフランス帝国が低地地方北部のオランダをも占領し、低地地方全体はフランスの支配下に入った。1815年のウィーン会議では「正統主義」が掲げられ、低地地方南部は北部とともにオラニエ=ナッサウ家当主を国王とするオランダ王国の一部となった。 1830年、低地地方南部ではブリュッセルを中心にオランダからの独立を目指すベルギー独立革命が起こった。宗教や言語の相違も革命の原因のひとつであったが、それ以上に北部オランダの経済支配と自由貿易政策に対する南部の不満が大きな理由として考えられる。同年9月26日にはシャルル・ロジェ(フランス語版)ら急進派自由主義者を中心に臨時政府が樹立され、10月4日にはベルギー国家の独立が宣言されるとともに団体形成・信教・教育・出版の自由が掲げられた。11月10日には憲法制定国民議会が招集され、11月18日には代議制君主国家として独立することを宣言した。同月、英仏普墺露のヨーロッパ五強国がロンドンに集まり(ロンドン会談)、プロイセンとロシアは独立に難色を示したものの、イギリス・フランス・オーストリアはベルギー独立を強く支持して新国家が国際的に承認され、国王にはザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド(1世)が即位した。南部独立をなかなか認めなかったオランダは、1839年になってようやくロンドン条約を批准するもベルギーとフランスの同盟を恐れ、新国家が永世中立国となることを条件にその独立を認めた。新生ベルギー国家ではカトリック教徒が多数派を占めたが、国王となったレオポルド1世はプロテスタントかつフリーメイソン会員であった。 1831年2月7日制定のベルギー憲法(英語版)(1831年憲法)は、アメリカ独立とフランス革命の諸原則の影響を受けたきわめて自由主義的性格の強い憲法典であり、財産権の不可侵、信教・礼拝・意見表明の自由および、教育・出版・結社・言語選択の社会的自由が保証された。この憲法では教会と国家の分離も明示されており、政教分離を規定した成文憲法としてはアメリカ合衆国憲法に次ぐ歴史を有している。
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