ベルギー独立をめぐって
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「ベルギー独立をめぐって」の解説
パーマストン卿が外相に就任したばかりの頃の外交上の懸案はベルギー独立革命であった。 ベルギーは、ウィーン条約以来オランダ王室オラニエ=ナッサウ家の統治下に置かれていたが、1830年7月のフランス7月革命の影響を受けて自由主義・ナショナリズムの機運が高まり、オランダ(当時絶対君主制の政体だった)からの独立を求める蜂起が発生し、10月にはベルギー独立が宣言されるに至った。周辺国も介入し、ロシア、オーストリア、プロイセンという神聖同盟を結ぶ絶対君主制三国がオランダを支援し、自由主義的なイギリスと7月王政下のフランスがベルギー独立を支援する構図になった。 ベルギーをめぐって欧州各国の対立が深まる中、前政権の英外相アバディーン伯爵が国際会議を提唱し、11月4日からロンドン会議が開催された。この会議のさなかにグレイ伯爵内閣への政権交代があり、新たに外相に就任したパーマストン卿が就任早々この会議を取り仕切ることとなった。 1831年1月20日の会議でパーマストン卿は各国の同意を取り付けて、ベルギーの永世中立国としての独立を認めた。続いて誰をベルギー君主にするかが焦点となったが、ベルギー国内ではフランスの庇護のもとに自由主義国家として独立を維持しようという世論が強かったため、2月3日にベルギー国民議会がロンドン会議に独断でフランス王ルイ・フィリップの次男であるヌムール公爵を国王に選出した。これに神聖同盟三国は激しく反発し、パーマストン子爵もヌムール公爵にベルギー王位を断念させるようフランス代表タレーランの説得にあたった。孤立を恐れたフランスは、ヌムール公爵にベルギー王位を辞退させた。 ヌムール公爵の線が消えると、首相グレイ伯爵はザクセン=コーブルク家のレオポルド公子(亡きシャーロット王女の夫)のベルギー王即位を狙うようになり、パーマストン子爵もその意を汲んで会議でレオポルド公子を推した。パーマストン子爵の手腕で最終的にはフランスも神聖同盟三国もレオポルド公子をベルギー王とすることを支持した。ベルギー国民議会も6月4日にレオポルド公子の推戴に賛成する決議をし、レオポルドがレオポルド1世としてベルギー王に即位することとなった。 この後、レオポルド1世はベルギー領土の範囲、またオランダ国債のオランダとベルギーの負担割合をめぐってオランダと対立を深めていった。パーマストンが主導するロンドン会議ははじめレオポルド1世の主張を支持したが、それに反発したオランダ王ウィレム1世は8月2日にベルギー侵攻を開始、ベルギーは英仏に援軍を求めた。神聖同盟三国もオランダの明白なる侵略行為は擁護しがたく、ロンドン会議はフランス軍の出動を認めた。フランス軍がベルギーに進駐を開始するとオランダ軍は8月15日にベルギーから撤退した。フランス軍はそのままベルギーに進駐を続けようという構えを見せたが、神聖同盟三国の反発とパーマストン子爵の説得で最終的にフランス軍は撤収した。 この一連の騒ぎでロンドン会議はオランダ側に若干有利な修正議定書を採決したが、オランダ側はそれでも了解せず、最終的にウィレム1世が議定書を受け入れてベルギー独立を承認したのは1839年になってのことであった。 それでもベルギー独立がヨーロッパ大戦に拡大することなく実現できたのはパーマストン子爵の会議外交の手腕の賜物だった。国王ウィリアム4世はこの会議の功績でパーマストン子爵にバス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を授与している。
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