ヘレナの生存者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 20:03 UTC 版)
「ヘレナ (軽巡洋艦)」の記事における「ヘレナの生存者」の解説
ヘレナの生存者の一部は、信じがたい冒険を経験した。沈没から30分後、後続の駆逐艦ニコラス (USS Nicholas, DD-449) とラドフォード (USS Radford, DD-446) がヘレナの生存者の収容を開始しようとしたが、涼風と谷風、輸送隊の天霧が引き返してきたので、作業を一時中止して退避。しかし、ニコラスとラドフォードに気付かず去っていったので、連合軍側は作業を再開した。ニコラスとラドフォードは夜明け前に天霧および望月との砲戦を交わし、日本機の空襲を気にしつつも275名を救助し、ツラギ島に帰投した。しかし、275名がヘレナの生存者の総数ではなく、残りの約500名ほどの生存者はニコラス、ラドフォードおよびホノルル、セントルイスから供与された救命ボートに分乗していた。チャールズ・パーセル・セシル艦長は3隻の救命ボートを集めてベララベラ島に向かい、他の87名と共に上陸したが、この時のベララベラ島には日本兵600名がいた。セシル艦長のグループは翌朝に駆逐艦グウィン (USS Gwin, DD-433) とウッドワース(英語版) (USS Woodworth, DD-460) に収容された。 別の200名のグループは、ヘレナの救命ボートに乗って脱出した。一時危機に瀕したものの、PB4Y-1 リベレ―ターが投下した救命胴衣とゴムの救命ボートにより危機は回避された。負傷者を従来の救命ボートに留め置いて移動し、コロンバンガラ島へ向けて航行したものの、風と海流に流されて日本軍の勢力圏内まで流された。その間に負傷者は次々と息を引き取り、捜索の飛行機にも遭遇せず、コロンバンガラ島は遠くに見えなくなっていた。一晩の後、セシル艦長のグループと同様ベララベラ島を発見し、上陸した後2名の沿岸監視員に匿われてガダルカナル島に情報を送信した。165名の生存者はジャングルの奥で保護された。165名の収容はニコラス、ラドフォードの他、駆逐艦ジェンキンス (USS Jenkins, DD-447) とオバノン (USS O'Bannon, DD-450) によって行われた。7月15日、ニュージョージア海峡を急行した4隻の駆逐艦は、翌7月16日夜にベララベラ島に到着し、165名の他中国人16名を救助した。ベララベラ島の日本兵は一連の動きに全く気付かなかった。 およそ900名のヘレナの乗組員のうち、168名が戦死した。生存者の一部は後に、12月20日に就役したクリーブランド級軽巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CL-81) の乗組員の中核を成した。また、戦死者や負傷者に火傷の者が多かったので、以後暑い気候の海域でも、基本的に肌の露出が少ない服装を着用することが義務付けられた。 サボ島沖海戦にて誤射にて駆逐艦ダンカンを撃沈、ファーレンホルトに損害を与え、第三次ソロモン海戦ではジュノーの乗員を見捨て逃げた等の失態があったもののヘレナは海軍殊勲部隊章を受章した最初の艦となった。サボ島沖海戦、ガダルカナル島の戦い、クラ湾夜戦での功績が受章理由であった。ヘレナはまたアジア=太平洋戦役章および7個の従軍星章も受章した。
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