ヘボンによる聖書和訳事業
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「日本語訳聖書」の記事における「ヘボンによる聖書和訳事業」の解説
日本キリスト教史上の大立者であり、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn, PN)は、アメリカ合衆国長老教会外国伝道局の宣教師であり、ギュツラフの『約翰(ヨハネ)福音之伝』を携えて1859年に自費で日本に渡り、活動した。医師業の傍ら、同年より日本で宣教していたサミュエル・ロビンス・ブラウン(Samuel Robbins Brown, RCA)とともに聖書翻訳事業を開始し、1861年ごろからマルコ福音書の翻訳に取り掛かった。ヘボンもブラウンも中国宣教経験があって漢文が読めたことから、翻訳は漢訳聖書の読み下しから始まった。底本と推測されているのは「代表訳」と呼ばれる漢訳『新約全書』(上海、1852年)、およびブリッジマンとカルバートソン(英語版)の漢訳『新約全書(中国語版)』(寧波、1859年)で、ヘボンによるマタイ福音書の訳語(後に公刊された版による)には、後者の影響の強さが指摘されている。1860年代の前半には他の福音書や創世記、出エジプト記の一部が訳されたらしいが、この時期の訳稿は現存していない。ヘボン、ブラウンの訳業には、バラ (J. H. Ballagh, RCA)、タムソン (David Thompson, PN) ら宣教師および日本人の矢野隆山、奥野昌綱らが協力した。ヘボン、ブラウンらはこの翻訳に何度も改訂を加えていったが、前述のゴーブルが個人訳を出版したことから協力者たちと共に彼らの翻訳の完成を急いだらしい。途中、ブラウン宅の失火による原稿焼失などのトラブルを乗り越えつつ、奥野昌綱の奔走などもあって、まだ禁教下であった1872年に『新約聖書馬可(マコ)伝』『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』、禁教が解かれた1873年に『新約聖書馬太(マタイ)伝』を出版している。漢文直訳調を避けて一般人に分るようにしながら、それでいて文語の格調を失わないように工夫することが志向された。確かに文語表現に成熟が見られ、文体の統一も進んだことは評価されるが、他方で漢文訓読体が残存している要素なども指摘されている。
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