ヘボンとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 09:56 UTC 版)
1944年(昭和19年)、学校の整理統合があり、関東学院の高等商業部は明治学院に併合されることとなった。高谷は関東学院の生徒とともに明治学院に移り、また教会もヘボンが横浜に設立した横浜指路教会に移った。明治学院での高谷の役職は図書館長であったが、ここで高谷はヘボンが日本で編集出版した『和英語林集成』の自筆原稿を見て感銘を受けた。 東京大空襲が続く中で、これが消失することを恐れ高谷はヘボンの自筆原稿を背負って東北学院に疎開させた。戦後、高谷は本格的に日本のプロテスタント史研究に精力を注ぎ込み、文部省の助成金で『ドクトル・ヘボン』を出版した。それまでヘボンを紹介する本はウィリアム・グリフィスの『日本のヘボン』を元にした山本秀煌の『ゼー・シー・ヘボン』のみで、高谷の本により初めてヘボンが広く一般に紹介されることになった。
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