プルタルコスの伝える経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:11 UTC 版)
「第三次奴隷戦争」の記事における「プルタルコスの伝える経過」の解説
プルタルコスはアッピアノスのそれとは大きく異なる経過を述べている。 プルタルコスの伝えるところによると、ガルガヌス山麓でのゲッリウスの軍団とクリクススの兵(プルタルコスはゲルマン人と記している)との戦いの後、スパルタクスの兵はレントゥルスの軍団と戦ってこれを撃破し、補給品と装備を手に入れると北イタリアへと前進した。この敗北の後、両執政官は元老院によって指揮権を取り上げられ、ローマに召還された。プルタルコスはスパルタクスとゲッリウスの軍団との戦いやピセヌムでの両執政官軍との戦いについて何も言及していない。 プルタルコスはアッピアノスが伝えていない戦いについて記述している。プルタルコスによれば北上したスパルタクスの軍はムティナ(現在のモデナ)に至った。ここでガリア・キサルピナ属州総督ガイウス・カッシウス・ロンギヌス の率いる1万人のローマ兵がスパルタクスの前進を阻もうとして撃破されている。 これ以降、プルタルコスの史書には紀元前71年春のクラッススとスパルタクスとの緒戦までの期間の記述はなく、アッピアノスの伝えるローマへの進軍やトゥリへの退却の話は省略されている。 スパルタクスの目的であった筈のアルプス越えが、なぜ実行されなかったのか、プルタルコスは何も説明していない。2世紀の歴史家フロルスは「勝利に驕ったスパルタクスがローマ進軍を企てた」と述べている。 モムゼンをはじめとする近現代の歴史学者たちの多くは、半島内を略奪して回ることを望む周囲の圧力にスパルタクスが屈したとしている。ソ連の研究者A・W・ミシューリンは反乱軍内の意見の不一致、アルプス越えの困難さ、そして北イタリアでは奴隷経済が発展しておらずの現地の自作農の抵抗があったことに再南下の原因を求めた。反乱軍内に不一致はなく、スパルタクス自身がローマ進軍に積極的に同意したとする主張もある。 これらに対してポーランドのカミェニックや日本の土井正興は、ガリア・キサルピナ到達が予定よりも遅れて秋になり、ポー川が氾濫して渡河が困難になった上に冬の到来もあいまって女子供を含んだ大所帯での冬のアルプス越えは不可能だと判断したとする再南下の原因を地理的要因に求める説を唱えている。その他には故郷トラキアでの戦争がローマの勝利に終わったことにより故国帰還を放棄したとする外的要因説があり、さらには、この反乱は奴隷ではなく自由農民が主体であったと主張する研究者はアルプス越え自体が目的ではなかったとしている。いずれにせよ数万人にのぼる逃亡奴隷の集団は進路を反転し、食糧を得やすい南へと向かった。
※この「プルタルコスの伝える経過」の解説は、「第三次奴隷戦争」の解説の一部です。
「プルタルコスの伝える経過」を含む「第三次奴隷戦争」の記事については、「第三次奴隷戦争」の概要を参照ください。
- プルタルコスの伝える経過のページへのリンク