プルタルコスの記載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/08 15:16 UTC 版)
「シュラクサイ包囲戦 (紀元前343年)」の記事における「プルタルコスの記載」の解説
ティモレオンが1,000の兵と共にタウロメニオンに到着した後、ヒケタスはカルタゴに援軍を求め、カルタゴは多くの三段櫂船を送ってシュラクサイの港を占拠した。他方、アドラノンでは2つの派閥が争っており、片方がヒケタスを、もう片方がティモレオンに介入または仲裁をもとめた。このため、2人はアドラノンに向かい、ほぼ同時に到着した。ヒケタスの兵は5,000であり、ティモレオンの兵は1,200を超えなかったが、ヒケタス軍は戦闘準備が整っていなかった。ティモレオン軍は敵兵300を殺害し、600を捕虜とした。その後アドラノンはティモレオンと同盟を結んだ。 この時点で、カタナの僭主マメルケス(ディオドロスによるとマルケス)はティモレオンと同盟した。そのほかにも幾つかの都市がティモレオンに従った。ディオニュシオスはヒケタスを軽蔑していたが、ティモレオンを尊敬しており、ティモレオンに降服を申し出た。ティモレオンはカルタゴ海軍の封鎖を避けて兵400をオルティージャ島に送り、ディオニュシオスの兵2,000を引き継いだ。ディオニュシオス自身は多少の宝物をもってコリントスに亡命した。ディオニュシオスの降服は、ティモレオンのシケリア到着後50日以内の出来事であった。この成功の知らせを受けたコリントスは歩兵2,000と騎兵200を増援として送った。しかし南イタリアのスリイ(en)までは達したものの、カルタゴ海軍が制海権を握っていたため、それ以上は進めなかった。 ヒケタスはアドラノンに滞在しているティモレオンの暗殺を試みたが失敗した。ヒケタスは依然として(今やティモレオン軍が支配する)オルティージャ島を包囲していたが、カルタゴの援軍は少数に留まっていた。ヒケタスはカルタゴの将軍マゴ(マゴ3世)に全軍でシュラクサイを占領するように依頼した。マゴは150隻で港を占領し、市の一部に歩兵60,000を野営させた。オルティージャ島のティモレオン軍は、カルタゴ軍による封鎖により食料不足に苦しみだした。ティモレオンは漁船と軽量の平底船を使って、カタナからオルティージャ島に穀物を運ぶよう命じた。海が荒れるとカルタゴ軍の三段櫂船が互いに距離を取る必要があったために、封鎖突破船の利用は特に荒天時には有効であった。 ヒケタスとマゴは補給船がカタナから来ることを知ると、そこを占領するためにカタナに軍を進めた。オルティージャ島のコリントス軍指揮官であるネオンは、シュラクサイ守備に残った兵が十分な注意を払っていないことを認めた。ネオンは奇襲を実施し、シュラクサイのアクラディナ地区を占領し、また金銭と補給物資も得た。アクラディナ地区は強固に防御されていたため、ネオンはオルティージャ島に引き上げず、アクラディナに留まった。またアクラディナ地区とオルティージャ島の城壁をつないで、両方を防衛した。ヒケタスとマゴがこの報告を受けたのは、カタナに到着する寸前であった。ヒケタスとマゴはカタナを攻撃せずに直ちに引き返したが、アカルディナ地区の奪回もできなかった。この後、スリイに留まっていたコリントス軍はカルタゴ海軍を避けるために陸路を通ってレギオンに移動し、そこからシケリアに渡ることを決定した。 全増援軍が渡海を終えると、ティモレオンはこの兵を使ってメッセナを占領した。増援軍を合わせるとティモレオンの兵力は4,000となり、シュラクサイに進軍した。この報告を受けたマゴは憂慮し、ヒケタスの裏切りの恐れもあるため、全艦隊と共にカルタゴに撤退した。ヒケタスは依然としてシュラクサイの一部を占拠しており、そこは十分に防御されていた。ティモレオンはシュラクサイ攻撃のために軍を3つに分けた。ティモレオン自身は川沿いに攻撃した。コリントスのイシアスが率いた部隊はアクラディナから攻撃した。デイナルケスとデオルトスが率いるコリントスからの増援軍はエピポライ台地を攻撃した。3つの軍は同時に攻撃し、ヒケタス軍を駆逐した。真偽の程は不明ではあるが、ティモレオン軍には負傷者はあったものの戦死したものはいなかったとされる。
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