プランテーションの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:52 UTC 版)
966年ヴェネツィア共和国が中東から来る砂糖を貨物集散所に通して流通させる仕組みをつくった。11世紀末に十字軍がサトウキビをキプロスに持ち帰った。まず14世紀にはシチリアで、ついで15世紀初頭にはバレンシア地方へ栽培法が伝播し、地中海周辺が砂糖の生産地となった。 しかし、この15世紀からは大西洋の探検が少しずつ始まり、スペインがカナリア諸島で、ポルトガルがマデイラ諸島とアゾレス諸島でそれぞれサトウキビ栽培を始めた。この島々からの砂糖は1460年代にはヨーロッパへ輸出されており、シチリアやバレンシアでの砂糖生産は競争に敗れて衰退した。 新大陸の発見によって、まず最初に砂糖の大生産地となったのはブラジルの北東部(ノルデステ)だった。1530年代にサトウキビ栽培が始まり、1630年にレシフェを中心とする地方がオランダ領となると、さらに生産が促進された。しかし1654年にブラジル北東部が再びポルトガル領となると、サトウキビ生産者たちは技術を持ったまま、カリブ海のイギリスやフランス領に移民し、1650年代からはカリブ海域において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となった。 砂糖プランテーションには多くの労働力が必要だったが、この労働力は奴隷によってまかなわれ、アフリカから多くの黒人奴隷がカリブ海域へと運ばれた。ここで奴隷船は砂糖を買い付け、ヨーロッパへ運んで工業製品を購入し、アフリカで奴隷と交換した。この三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスは、これによって産業革命の原資を蓄えたとされる。 またこれらの西インド諸島の農園主たちは、本国議会に議席を確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易と奴隷制を主張する一大勢力をなしていた。1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものだったが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされた。 しかし砂糖法は始まりにすぎず、1765年の印紙法や1770年のタウンゼント諸法によってアメリカ植民地の支配が強化されると植民地の不満は爆発し、アメリカ独立戦争へとつながっていくことになった。18世紀後半にはフランス領サン・ドマングが世界一の砂糖生産地となったが、1804年のハイチ革命によりハイチが独立すると、支配者層が追放されて農園は黒人に分配され、砂糖生産は一気に衰退した。
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