プチャーチンの来航と日露和親条約とは? わかりやすく解説

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プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:53 UTC 版)

幕末の砲艦外交」の記事における「プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)」の解説

詳細は「日露和親条約」を参照 プチャーチンは、ロシア極東地域において影響力強化する必要を感じ皇帝ニコライ1世極東派遣献言1843年に清及び日本との交渉担当命じられた。しかし、それが実施移されたのは1852年になってからであり、日本との条約締結のために遣日全権使節任じられ皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。途中英国蒸気船ボストーク購入し1853年8月22日嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊率いて長崎来航した長崎奉行大沢安宅国書渡し江戸から幕府全権到着するのを待ったが、クリミア戦争参戦したイギリス軍極東ロシア軍攻撃するため艦隊差し向けたという情報得たため、11月23日長崎離れ一旦上海向かった1854年1月3日嘉永6年12月5日)、再び長崎戻り幕府全権川路聖謨筒井政憲と計6回に渡り会談した交渉はまとまらなかったが、将来日本他国通商条約締結した場合にはロシアにも同一条件待遇与える事などで合意した。翌1854年10月21日嘉永7年8月30日)、ディアナ号乗り換えて函館入港したが、同地での交渉拒否されたため大阪向かった翌月天保山沖に到着大阪奉行から下田回航するよう要請受けて12月3日嘉永7年10月14日)に下田入港した報告受けた幕府では再び川路聖謨筒井政憲らを下田派遣プチャーチンとの交渉を行わせた。交渉開始直後1854年12月23日安政元年11月4日)、安政東海地震)が発生し交渉中断1855年1月1日安政元年11月13日)、中断されていた外交交渉再開され、5回の会談結果2月7日安政元年12月21日)、プチャーチン遂に日露和親条約の締結成功したペリーとは対照的にプチャーチン軍事的威嚇などをすることもなく戦力的に貧弱という実状もあったが)、紳士的に交渉続けたこのため川路聖謨は、プチャーチン姿勢好感持った艦名艦種建造トン数乗組員機関出力備砲パルラーダ 帆走フリゲート 1832年 積載量1400トン程度bmトン不明54 ボストーク 蒸気船 1852年英国にて購入 不明 不明 不明 68ポンド x 4 オリバーツ 帆走軍艦 不明 不明 不明不明 メンシコフ 帆走補給艦 不明 不明 不明不明

※この「プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)」の解説は、「幕末の砲艦外交」の解説の一部です。
「プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)」を含む「幕末の砲艦外交」の記事については、「幕末の砲艦外交」の概要を参照ください。

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