プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)
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「幕末の砲艦外交」の記事における「プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)」の解説
詳細は「日露和親条約」を参照 プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられた。しかし、それが実施に移されたのは1852年になってからであり、日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。途中英国で蒸気船ボストークを購入し、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かった。1854年1月3日(嘉永6年12月5日)、再び長崎に戻り、幕府全権川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談した。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。翌1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、ディアナ号に乗り換えて函館に入港したが、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かった。翌月に天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月3日(嘉永7年10月14日)に下田に入港した。報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせた。交渉開始直後の1854年12月23日(安政元年11月4日)、安政東海地震)が発生し交渉は中断。1855年1月1日(安政元年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功した。 ペリーとは対照的に、プチャーチンは軍事的威嚇などをすることもなく(戦力的に貧弱という実状もあったが)、紳士的に交渉を続けた。このため川路聖謨は、プチャーチンの姿勢に好感を持った。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲パルラーダ 帆走フリゲート 1832年 積載量1400トン程度(bmトン) 不明 無 54 ボストーク 蒸気船 1852年英国にて購入 不明 不明 不明 68ポンド x 4 オリバーツ 帆走軍艦 不明 不明 不明 無 不明 メンシコフ 帆走補給艦 不明 不明 不明 無 不明
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