ブリティッシュコロンビアへの移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:45 UTC 版)
「ドゥホボール派」の記事における「ブリティッシュコロンビアへの移住」の解説
P・V・ヴェリギンは非ドゥホボール派や個人所有派の影響を除くため、ブリティッシュコロンビア州に移ることを決め、1908年から2地域の農地購入を開始した。1912年にかけてここに約8千人が移動し集団生活を始めた。ここは気候条件も良く、果樹生産地として成功した。彼らの元の居住地は1918年には廃止された。 自由主義派Sons of Freedomは当局に抗議するため「物質主義反対」を掲げて全裸で行進し放火を行った。これに対し当局は土地を差し押さえ、義務教育を実施した。これ以後1970年代まで、カナダ連邦政府や王立カナダ騎馬警察との対立が続くことになる。 P・V・ヴェリギンは1924年のカナダ太平洋鉄道爆破事件で殺された。背後関係は今も不明である。 P・V・ヴェリギンの息子ピョートル・ペトロヴィチ(P・P)・ヴェリギンはソ連にいたが、1928年にカナダへ移り、コミュニティ派指導者として父の後を継いだ。彼は多数派ドゥホボール派とカナダ社会との関係改善に努力した。彼の方針は自由主義派からは裏切りと見られ支持を失っていった。自由主義派はコミュニティ派の建物に放火し、さらに裸体行進を行ったため、政府は1932年に公然裸体罪を設け、これにより300人以上の自由主義派男女を逮捕した。 1947-48年、王立調査委員会はブリティッシュコロンビア州の放火・爆破事件を調査し、特に子供への公教育を通じてドゥホボール派をカナダ社会に同化させることが必要であるとした。また州政府は自由主義派幹部との対話を中止した。さらに1952年にブリティッシュコロンビア州首相となったW.A.C.ベネットはドゥホボール派問題に対して厳しい姿勢をとり、1953年には150人の自由主義派の子供が強制的に寄宿学校に入れられた。後にこの子供たちが虐待を受けたと訴えられ、州政府はこれに対して遺憾の意を表明したが、連邦政府は責任を認めていない。 多くの個人所有派とコミュニティ派の人々は、自由主義派は非暴力の原則を破っておりドゥホボール派の名に値しないと考えた。この自由主義派と他派との亀裂は現在にも尾を引いている。
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