ブラントタオハー号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 17:12 UTC 版)
「ヴィルヘルム・バウアー」の記事における「ブラントタオハー号」の解説
当時、火船は封鎖破りに有効な方法としてよく知られていた。火船とは爆発物を積んで敵船に体当たりする船である。ブラントタオハー(Brandtaucher;"Brand"は「火」、"taucher"は「潜るもの」を意味する)、すなわち「潜水火船」も同様の設計思想で作られた。敵船の下に潜り込み、船底に電気起爆式の機雷を取り付けて、安全な距離まで逃げてから機雷に点火するという構想であった。ほぼ同様の技術が当時の各国の海軍で研究されていた。その例としてはユリウス・クレール(Julius Kröhl)の「エクスプローラー」、ブリューテュス・ド・ヴィルロワ(Brutus de Villeroi)の「アリゲーター」、かの有名な「ハンリー」(敵船を沈めた史上最初の潜水艦)などが挙げられる。 バウアー本人製作の実用模型の機能が証明された後、フルサイズの潜水艦を作る資金を与えられた。しかし海軍の上層部はバウアーの計画にいまだに反対しており、予算を減らすためバウアーに設計の変更を強いた。バウアー本来の設計では複数のバラストランクを持つはずであったが、「船殻自体に海水を入れる」構造へと変更がなされたため、この潜水艦は危険かつ不安定なものとなったのである。また船殻の厚さと排水ポンプの性能も大幅に落とされた。 ブラントタウハーはアウグスト・ホーヴァルト(August Howaldt)の造船会社に発注され、製作された。全長28フィート、重量は約7万ポンドであった。当時では適切な動力システムが手に入らなかったため、人力駆動が採用された(水夫2人が手と足でクランクを回した)。3人目の乗組員が船長であり、船尾で操舵その他を受けもった。標的の下に到達できた場合、船殻を貫いて取り付けられたグッタ・ペルカ製手袋に手を入れて、敵艦に機雷を取り付けるのも船長の役目だった。 最初の試験は1850年12月に行なわれた。バウアーは何点か改良を施すことを希望したが、軍は翌52年2月1日に公開試験を行なうよう命令した。 公開試験は大失敗に終わった。30フィートの深度に達した後、ブラントタオハーは船尾から沈み始めたのである。そして、薄い外壁は水圧に耐え切れず、壊れ始めた。貧弱な排水ポンプでは浸水に対応できず、さらに転覆によってスクリューも損傷を受けた。ブラントタオハーはキール港の海底に向かってゆっくりと沈んで行った。バウアーと乗員たちは海底で6時間ほど持ちこたえ、浸水によって船内の気圧が上がりハッチを開けるようになると潜水艦を捨てて脱出した。 海底のブラントタオハーは1887年に引き上げられた。現在ではドレスデンのドイツ連邦軍事博物館(Militärhistorisches Museum der Bundeswehr)に展示されている。
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