ブラント政権の「養育係」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/25 07:33 UTC 版)
「ヘルベルト・ヴェーナー」の記事における「ブラント政権の「養育係」」の解説
1969年にSPD首班のヴィリー・ブラント政権が成立すると、連邦議会党院内総務に就任して、過半数確保が不安定なブラント政権を議会から支え、SPD政権の「養育係」とあだ名されるようになった。とりわけ、1972年のCDU党首ライナー・バルツェルによるブラント内閣に対する建設的不信任決議案提出の際はあらゆる手を尽くしてこれを葬り去り、のちに「真実は汚いものだ。院内総務が知っていても、首相が知らないほうが良いこともある」と回顧している。同年の連邦議会選挙でSPDは初めて議会第一党になったが、この勝利もヴェーナーの手腕によるところが大きいとされる。 ブラント政権の東方外交の一環として、1973年5月、自由民主党のヴォルフガング・ミシュニック議員と共に東ドイツを訪問し、エーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長と会見し、東西ドイツ関係上の人道的諸問題について話し合った。1974年にギヨーム事件が発覚してブラント政権が総辞職した際、ヴェーナーはブラントに引導を渡したとも、ブラント続投への支援を約束していたとも言われる。いずれにせよヴェーナーの支持により、ブラントは首相辞任後もSPD党首に留まり続けた。 1980年のドイツ連邦議会選挙にも当選し、ヴェーナーは議会最長老になった。ドイツ連邦議会発足以来25年の長きにわたり議席を維持し続けたのはヴェーナーを含め10人しかいない。1982年9月にヘルムート・シュミット政権(SPD)が崩壊してヘルムート・コール(CDU)政権が成立し、総選挙が行われることになった1983年3月、ヴェーナーは出馬せず政界を引退した。 34年の議員生活で78回の譴責を受けたが、これは他に並ぶ者が無い記録である。対立する政党の議員の名字をもじった蔑称で呼びかけたり、議員控室から右派議員を突き飛ばして閉め出し、10日間の登院停止処分を受けたこともある。演説は激烈で攻撃的で、その対象となったのは政治家ばかりでなくジャーナリストも同じだった。また東ドイツと独自のパイプを持ち、東ドイツのスパイマスターのマルクス・ヴォルフもヴェーナーとの接触があったと回顧するなど、西ドイツ政界の一時代を代表する豪腕であると同時に影の部分のある人物であった。
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