ブイエの再調査 1450年
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「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の記事における「ブイエの再調査 1450年」の解説
1450年2月15日、シャルル7世は、パリ大学の神学者であるギヨーム・ブイエに、「裁判の真相と裁判過程の詳細」とルーアンの陪席者による「過失と悪用」を調査するように命じた。パリ大学の一員が、同じ大学の他の会員から与えられた助言に基づき評決を調査するように求められており、そのために多少の難題を引き起こすことがあり得た。その中にはまだ存命で、教会と国で著名な地位を保持している人物もいた。したがって、シャルル7世は非常に慎重であり、ブイエの要約を予備調査に限定して、「そのプロセスについての真実とそれがどのような方法で実施されたか」を確かめた。この審理の段階で不当な有罪判決の疑いがあったものの、非公式の調査であったため、実際の効果を伴うものではなかった。 それでも、1430年には協力することをいとわない沢山の著名人がいた。シャルル7世が、ジャンヌに対する訴訟が再開されることがとてもかなわないものであったパリとルーアンを奪還すると、彼らは忠誠を変えた。彼らの中には、1443年にシャルル7世の訴訟理由に転向したノヨン司教であるジャン・ド・メイリー(英語版)などが含まれていたが、1431年には、英国のヘンリー6世の名で手紙に署名し、ジャンヌに対してこの事件に参加したすべての人々にイングランドの保護を保証していた。さらに大きな障害は、ルーアン大司教のラウール・ルーセル(英語版)であった。1450年にシャルル7世に忠誠を誓うまで、ルーアン大司教は、ノルマンディーのイングランドの支持者であり、ジャンヌの裁判に参加していた。 ブイエは7人の証人を召喚した。ギヨーム・マンション、イザンバール・ド・ラ・ピエール、マルタン・ラドヴニュ、ギヨーム・デュヴァル、ジャン・トゥームイエ、ジャン・マッシュウ、ジャン・ボーペールである。1450年3月4日と5日に証人への尋問が行われた。調査の結論はシャルル7世に封印密封された書簡で報告された。7人の証人のうち、ほとんどがジャンヌに対する憎悪と、ジャンヌを異端者として処刑することでシャルル7世の権威を傷つけようとしたイングランドの企てを非難した。だが、判事の1人であったジャン・ボーペール(ルーアンの律修司祭)はジャンヌに遺恨をもっていた。ブイエに尋問されたボーペールは、有罪判決裁判で手続きに関する質問に答えることを拒否した。ボーペールは、「彼女は非常にずる賢く、女性特有のずる賢さがあった」「もしジャンヌに賢明で率直な教師がいれば、彼女は自分を正当化するためのことを多く言い、有罪判決を招いた多くのことを控えていたと信じている、ジャンヌは偽物である」と述べた。彼の証言は、シャルル7世に封印密封された書簡で報告をした後の年の、ブイエがシャルル7世のために書いた報告書には含まれていなかった。状況が変化した - イングランドとの戦争の終結はまだ彼の注意の多くを占めていたし、ブルジュ勅令(英語版)に関して教皇政治に起ころうとしている紛争があった。シャルル7世は待つ余裕があったが、ブイエはその問題を一度に解決することが王の関心事であることを明確にした。
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