フレンチ・インディアン戦争にて
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「ジョージ・ハウ (第3代ハウ子爵)」の記事における「フレンチ・インディアン戦争にて」の解説
1757年2月25日、大佐への昇進と同時に第60歩兵連隊(英語版)第3大隊隊長に任命された。この連隊は別称ロイヤル・アメリカン連隊(Royal American regiment)が表すように、アメリカに派遣され、ハウは7月にルイブール遠征(英語版)への増援とともにハリファックスに到着した。赴任にあたり、ハウはカンバーランド公による推薦の手紙を所持したという。このとき、アメリカにおけるイギリス軍は第4代ラウドン伯爵ジョン・キャンベルが指揮官を、ジェームズ・アバークロンビーが副指揮官を務めていたが、2人はすぐにハウを信用し、様々な任務を与えるようになった。ハウはエドワード砦(英語版)で第60歩兵連隊と合流した後、9月28日にフレンチ・インディアン戦争に向けて新しく編成された第55歩兵連隊(英語版)の隊長に任命された。11月にフランスとインディアン部隊がジャーマン・フラッツ襲撃(英語版)を敢行したときはジャーマン・フラッツ(英語版)への救援部隊を率いた。12月29日、北米における軍階(local rank)として准将に昇進した。 『アメリカ人名事典(英語版)』によれば、ハウが部下に好かれた理由はフロンティアにおける戦闘(frontier warfare)への研究であり、一例として軍服や軍用食を非正規軍のそれに変えて、正規軍として目立たなくなるようにしたことが挙げられる。 1758年3月、大ピットはラウドン伯爵を召還した上、アバークロンビーをタイコンデロガ砦占領を目指す遠征部隊の指揮官に、ハウを副指揮官に任命した。行動の遅いアバークロンビーと精力的に行動するハウがいいコンビになることが期待されており、『オックスフォード英国人名事典』もハウが同時代のアメリカ駐留軍の間で好評を得ているとした。遠征はジョージ湖経由で道中のタイコンデロガ砦を占領した後、カナダ侵攻を目指すというものだった。そして、アバークロンビーとハウ率いる1万6千人の部隊は7月4日に出発し、5日にジョージ湖を進み、同日の夜にはジョージ湖の西側にあるサバス・デイ・ポイント(Sabbath Day Point)に到着した。フランス軍は守備を固めていたが、イギリス軍の人数がフランス軍の5倍という数の差があり、大砲を40門有したため、勝利の可能性は十分にあった。翌朝、ハウは1個中隊を率いてタイコンデロガ砦への進路を探したが、ジョージ湖から2マイルのトラウト・ブルック(Trout Brook)でフランス軍の分遣隊に遭遇した。両軍はそのまま小競り合いになり、ハウは心臓を打ちぬかれて即死した。小競り合いの結果はイギリス軍が戦死87、負傷230で、フランス軍が戦士100、捕虜150であり、さらにフランス軍が敗走したが、ハウの死によりイギリス軍の士気が下がり、7月8日のカリヨンの戦いではイギリスが大敗した。これによりアバークロンビーはやむなく撤退、翌年に更迭された。『オックスフォード英国人名事典』はハウが戦死しなかった場合、イギリス軍を勝利に導けたか不明だとしているものの、イギリス軍のジェームズ・ウルフがハウの死を国にとって大きな損失であるとし、マサチューセッツ植民地が1762年にウェストミンスター寺院でハウの記念碑を立てるなど、ハウが同時代の人々に深い印象を残したことは確かだとしている。 死後、トラウト・ブルック近くで埋葬された説が根強いが、『オックスフォード英国人名事典』によれば、ハウの遺体はオールバニに運ばれ、セント・ピーター教会(St Peter's Church)に埋葬された。生涯未婚であり、弟リチャードが爵位を継承した。
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