フランツ・フェルディナント大公の帝国改編構想
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「ドナウ連邦構想」の記事における「フランツ・フェルディナント大公の帝国改編構想」の解説
フランツ・ヨーゼフ1世は「三重帝国」計画を断念せざるをえず、また年齢を重ねるにつれて保守的になっていき、晩年には三重帝国を認める気はなくなった。しかし、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公は、ボヘミアの伯爵令嬢ゾフィー・ホテクを妃としただけあって親スラヴ的な傾向があり、また帝国においてすでに高い地位を占めているにも関わらず諸々の要求をするハンガリーを嫌悪していた。 フランツ・フェルディナント大公と「ベルヴェデーレ・サークル」と呼ばれる大公の仲間たちは、皇位を継承した際の帝国改編について、以下の3つの案を持っていたとされる。 ハンガリーに男子普通選挙を導入し、議会においてハンガリー人が過大に代表されている状態を是正する 「二重帝国」の枠組みを廃し、集権的な大オーストリア国家を創出する ハンガリー人以外の国民にも個別に妥協し、局地的な再編を行う ベルヴェデーレ・サークルに所属していたアウレル・ポポヴィッチ(英語版)が1906年に発表した『大オーストリア合衆国』(ドイツ語: Vereinigte Staaten von Groß-Österreich)という書物は、当時のベストセラーとなった。この本では、君主国全体を民族集団の分布に応じて15の「半主権的州(halbsouveräne Staaten)」に区分することが想定された。1911年、ベルヴェデーレ・サークルに所属していたミラン・ホッジャは、フランツ・フェルディナント大公に宛てた覚書の冒頭で「皇位継承後すぐの段階で、クーデタ(Štátny prevrat)あるいは漸進的な改革によって二重主義を撤廃し、『ハンガリー人分離主義者の野望』を打破すべき」と書いている。皇位継承者の周囲はこうした思想の人物で固められており、皇位継承者自身も、完全に同一とまではいかなくとも彼らと類似の思想を持っていたのである。 1914年春に84歳のフランツ・ヨーゼフ1世が危篤状態に陥った時、すぐさまフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ・サークルのメンバーを招集し、崩御の際の対応策を協議した。ハンガリーについては連邦化と男子普通選挙の導入が予定され、ハンガリー議会が改革を拒否した場合には勅令で導入することも検討された。皇帝が快復したことにより、ベルヴェデーレ・サークルのプランは幻のまま終わった。それからわずか数か月後にサラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公は暗殺され、ベルヴェデーレ・サークルはその役目を終えることになる。
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