フランツ・フェルディナント大公との対立
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「フランツ・フェルディナント大公との対立」の解説
弟カール・ルートヴィヒ大公が1896年に死去すると、その長男で皇帝にとっては甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を帝位継承者に指名した。ハンガリーの政治的独立を半ば認めて帝国内の民族融和を図るフランツ・ヨーゼフの政策に対し、フランツ・フェルディナントは、多くの特権を得ているにもかかわらずなお完全な独立を要求するハンガリー人を「厚顔」として批判するなど、両者の間には政治的対立がたびたび見られた。フランツ・ヨーゼフが諸民族の融和を信条とし、「一致団結して」をスローガンに掲げているのに対し、フランツ・フェルディナントはオーストリアの強化を目指し、国粋主義的な思想を展開していた。 また、フランツ・フェルディナント大公は結婚問題をも引き起こしていた。将来の皇后としては身分不相応なゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を欲していたのである。再三にわたって結婚の許可を求められたフランツ・ヨーゼフは「ならば帝位か結婚か、どちらかを選べ」と迫ったが、これに対してフランツ・フェルディナントは帝位と結婚の両方を願った。故カール・ルートヴィヒ大公の後妻、すなわちフランツ・フェルディナントの義母マリア・テレサ大公妃が皇帝を説得した。その結果、ゾフィーを皇后の身分にせず、また彼女との間に生まれる子孫には帝位継承権を与えないという条件のもとで、フランツ・ヨーゼフはこの結婚を承認した。1900年7月1日に結婚式が催されたが、フランツ・ヨーゼフは出席を拒否した。 フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナントは結婚後にベルヴェデーレ宮殿に居を構えるようになったため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。1906年から、フランツ・フェルディナントは次第に政府内でいくらかの発言権を認められるようになり、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフやマックス・ウラディミール・フォン・ベック(英語版)など、ベルヴェデーレ派の人々が政府上層部で影響力を持つようになっていった。政治に参加するようになった彼らは、ベルヴェデーレ側ではなくシェーンブルン側の意に従う人間になった。この後も政府を支配したのは依然としてフランツ・ヨーゼフであったが、やがて彼らに流される形で第一次世界大戦の開戦に至ることになる。
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フランツ・フェルディナント大公との対立
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「フランツ・フェルディナント大公との対立」の解説
弟カール・ルートヴィヒ大公が1896年に死去すると、その長男で皇帝にとっては甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を帝位継承者に指名した。ハンガリーの政治的独立を半ば認めて帝国内の民族融和を図るフランツ・ヨーゼフの政策に対し、フランツ・フェルディナントは、多くの特権を得ているにもかかわらずなお完全な独立を要求するハンガリー人を「厚顔」として批判するなど、両者の間には政治的対立がたびたび見られた。フランツ・ヨーゼフが諸民族の融和を信条とし、「一致団結して」をスローガンに掲げているのに対し、フランツ・フェルディナントはオーストリアの強化を目指し、国粋主義的な思想を展開していた。 また、フランツ・フェルディナント大公は結婚問題をも引き起こしていた。将来の皇后としては身分不相応なゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を欲していたのである。再三にわたって結婚の許可を求められたフランツ・ヨーゼフは「ならば帝位か結婚か、どちらかを選べ」と迫ったが、これに対してフランツ・フェルディナントは帝位と結婚の両方を願った。故カール・ルートヴィヒ大公の後妻、すなわちフランツ・フェルディナントの義母マリア・テレサ大公妃が皇帝を説得した。その結果、ゾフィーを皇后の身分にせず、また彼女との間に生まれる子孫には帝位継承権を与えないという条件のもとで、フランツ・ヨーゼフはこの結婚を承認した。1900年7月1日に結婚式が催されたが、フランツ・ヨーゼフは出席を拒否した。 フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナントは結婚後にベルヴェデーレ宮殿に居を構えるようになったため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。1906年から、フランツ・フェルディナントは次第に政府内でいくらかの発言権を認められるようになり、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフやマックス・ウラディミール・フォン・ベック(英語版)など、ベルヴェデーレ派の人々が政府上層部で影響力を持つようになっていった。政治に参加するようになった彼らは、ベルヴェデーレ側ではなくシェーンブルン側の意に従う人間になった。この後も政府を支配したのは依然としてフランツ・ヨーゼフであったが、やがて彼らに流される形で第一次世界大戦の開戦に至ることになる。
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