フォルカー・フィンケ監督勇退、そしてその後
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「SCフライブルク」の記事における「フォルカー・フィンケ監督勇退、そしてその後」の解説
14年間に渡りクラブの実権をほぼ完全にフィンケ監督に任せていたシュトッカー会長やクラブ首脳陣とのトラブルが15年目あたりから起きるようになる。最終的には当初結果が思わしくなかった16年目のウィンターブレイク前に「シーズン終了後にフィンケを強制的に勇退させる」ことをクラブが発表。サポーターのみならず多くの選手もこの決断に反発し、各地で反対運動が起きる。チームは「反首脳陣」でさらにまとまり、ウィンターブレイク後はリーグの歴史に残る好結果を収める。 しかし、首脳陣の決断は変わらず、2006-07年シーズン終了後にフィンケ監督が勇退。16年間に渡る長期政権が終了する。フィンケ勇退反対運動などがフライブルクでのみならず、メディアを通してドイツ中で起きるようになり、ドイツを代表するノーベル賞作家ギュンター・グラスがドイツ国営放送を通してフィンケを監督としてクラブに残すように訴えるなど多くの著名人がSCフライブルクの監督交代を反対する中、2007-08年シーズンよりインド系ドイツ人の若手監督、ロビン・ドゥットが就任する。 長期政権の直後という難しいタイミングでチームを率いることになったこともあり、初シーズンはドイツ2部で5位と、フォルカー・フィンケが16年間に渡って残した結果より下回る成績でシーズンを終了したため、多くの批判を浴びた(フィンケの「最低」の成績はドイツ2部で4位、「最高」の成績はドイツ1部で3位)。 ドゥット新監督の「クラブの伝統となった素早いコンビネーションプレーをベースにした攻撃サッカーも良いが、場合によってはパワープレーや焦らずにゆっくりと攻めていくことも必要だ。美しさのみを追求し、得点に結びつかないのでは意味がない。」という発言からも分かるように、「フィンケサッカー」から「ドゥットサッカー」への転換、及び戦術面での修正が行われる。そのため「ブライスガウ地方のブラジル人」という愛称は2007年以降「懐かしい死語」と言われるようになった。 またイングランドのアーセナルFC同様、よほどのことがない限り主に将来性のある(市場価値が上がる)若手選手のみを獲得してきたフィンケ監督とは違い、初シーズンから同リーグの他クラブでベンチを温めているベテラン選手を獲得するなどドゥット新監督は新たな方針も打ち出している。それによってドイツ・サッカー業界内での「16年間続いたクラブの異端さ」が失われている、という批判も多く、フォルカー・フィンケ復帰を求める声も少なくない(なお、フィンケは2009年から2010年まで日本の浦和レッズの監督に就任した)。 2008年にJリーグの愛媛FCとフレンドシップ協定を結んだ(愛媛FCのホームタウンの松山市がフライブルク市と姉妹都市のため)。
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