バラエティ番組への進出、2度目の離婚とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:34 UTC 版)
「松方弘樹」の記事における「バラエティ番組への進出、2度目の離婚とその後」の解説
俳優業の一方で、1985年(昭和60年)に始まるバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』ではそれまでのイメージを覆し、冗談好きで笑い上戸な一面をみせ、以後バラエティ番組にも顔を出すようになる。1990年代までは、ドラマ・バラエティともにレイバンの度入りのサングラスをかけながら出演し、それがトレードマークにもなっていたが、2000年以降はレーシック手術で視力が回復したため、ほとんど眼鏡は使用しなくなった。 1991年(平成3年)、順調な俳優活動のさなか、妻・仁科の子宮頸がんが発覚。「闘病を支える夫」としてマスコミに取り上げられる事も少なくなかったが、実はその陰で京都祇園の高級クラブで見初めた30歳年下のホステス(当時19歳)との不倫関係をスタートさせる。1995年(平成7年)には「山本万里子」の芸名で、当時出演中だったドラマ『HOTEL』第4シリーズで女優デビューさせている(のちに引退)。1998年(平成10年)、仁科が二人の関係を女性週刊誌に暴露。翌年1999年(平成11年)1月に離婚が成立。その後は松方の死去まで事実婚の関係が続いた。また離婚後の2001年(平成13年)には自身の個人事務所「松プロダクション」が映像作品制作、プロデュース進出の失敗から多額の負債を抱え倒産し、大手事務所バーニングプロダクションに一時預かりの形で所属。2011年(平成23年)8月に独立し、個人事務所「MARE(マーレ)」を設立した。2001年以降は通販事業や芸能マネジメント、コンサートプロモーションなどを手掛ける「株式会社夢グループ」と提携。病の妻を裏切っての不倫、離婚の代償は大きく、テレビ出演本数が激減する一方で、映画作品、オリジナルビデオなどの映像作品出演と並行して、同社関連の歌謡ショー、同社子会社「ユーコー」の広告や、舞台公演などが活動の中心となった。
※この「バラエティ番組への進出、2度目の離婚とその後」の解説は、「松方弘樹」の解説の一部です。
「バラエティ番組への進出、2度目の離婚とその後」を含む「松方弘樹」の記事については、「松方弘樹」の概要を参照ください。
- バラエティ番組への進出、2度目の離婚とその後のページへのリンク