バイエルン州政府の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:23 UTC 版)
「バイエルン人民党」の記事における「バイエルン州政府の解体」の解説
1933年1月30日に中央政府でナチ党党首アドルフ・ヒトラーがヒンデンブルク大統領により首相に任命された。バイエルン人民党はパーペン時代のプロイセン・クーデタのようなことがバイエルンに対して行われることを恐れていたため、バイエルン人民党党首シェッファーは2月17日に大統領と会談した。大統領はバイエルン政府にいら立っていたものの、シェッファーがバイエルンに帰国した後、プロイセンのように国家全権委員をバイエルンに送り込むことはしないことを確約した。 だがヒトラー内閣内務大臣ヴィルヘルム・フリックが「強制的同質化」計画を口にするようになったうえ、2月28日には「邦が治安維持のために必要な措置を講じない場合は当該邦の全面的支配権が中央政府にゆだねられる」という規定を含む「国民及び国家保護のための大統領緊急令」が発令された。 警戒を強めたバイエルン人民党内では旧バイエルン王室のヴィッテルスバッハ家の王政復古計画が進められた。シェッファーはループレヒト皇太子と接触し、皇太子から「バイエルン政府が全面的に支えてくれるなら復位の用意がある」との確約を取り付けた。この計画はナチスに対する復古主義保守派の挑戦的意思表示にはなったものの、バイエルン住民の熱烈な支持を受けることはなかった。ヴィッテルスバッハ王室がいまなおバイエルン住民の広範な支持を受けているというのは俗説にすぎず、もはやバイエルンに王党派など知識人層を除いてはほとんどいなかった。ヘルトも王政復古に慎重姿勢を崩さなかった。 大統領緊急令の翌日にヘルトはベルリンに召集され、ヒトラーと会談した。ヘルトはヒトラーとの対決を回避すべく、これまでのバイエルン政府が歴代ドイツ首相に対してそうしてきたのと同様にヒトラーにも敬意を払うことを約束した。ヒトラーの方もハンブルクやヘッセンなどいくつかの邦に中央政府が介入したのはそれらの邦を社民党が牛耳っていたためであり、保守派が牛耳るバイエルンにはそうした行動をとるつもりはないと約束した。ただヒトラーは王政復古はいかなる形でも認めず、もしバイエルンが王政復古を強行した場合には軍が差し向けられることも示唆した。ヘルトはもとより王政復古を真面目に考えていたわけではなかったので、ひとまず安堵して帰国の途についた。 ところが1933年3月5日の国会選挙にナチ党が大勝すると、ナチ党政権はこの最新の選挙結果をすべての邦政府に反映させるべきと主張して各邦に中央政府に自治権を譲渡するよう圧力をかけるようになった。ブレーメンとヘッセンは3月6日、バーデンとヴュルテンベルク、ザクセンは3月8日に自主権を中央政府に移譲した。危機感を抱いたバイエルンのヘルト政府は再度ヒンデンブルク大統領からバイエルンに国家全権委員が送られることはないとの確約を取ろうとしたが、3月9日にはナチスの突撃隊と親衛隊がミュンヘンでクーデタを起こすとの噂が広まった。ヘルトはこの件についてミュンヘン警視総監と邦外務省で会議し、邦警察部隊やバイエルン人民党が保有する準軍事組織「バイエルン護衛団(ドイツ語版)」の動員も検討したが、いずれも突撃隊に対抗できるような戦闘力をもっていなかったため、断念した。その日の夜にヘルトはナチ党代表団(ミュンヘン大管区指導者アドルフ・ヴァーグナー、突撃隊幕僚長エルンスト・レーム、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、フランツ・フォン・エップら)と会談したが、彼らは中央政府内務大臣フリックが2月28日の大統領緊急令第2条に基づいてエップをバイエルンの国家全権委員に任命したことをヘルトに通告した。絶望したヘルトは国家全権委員任命に関する落胆の気持ちを大統領に打電した後、ミュンヘンを去ってスイスへ移住した。 ヒトラーはバイエルンの反発を抑えるため、エップ政権にオイゲン・フォン・クヴァート・ツー・ヴィクラート・ウント・イズニ伯爵(バイエルン経済相)などバイエルン人民党員の入閣を許した。
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