バイエルン州国家代理官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:40 UTC 版)
「フランツ・フォン・エップ」の記事における「バイエルン州国家代理官」の解説
1933年1月30日、ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により首相に任命された。3月9日にヒトラーと内務大臣ヴィルヘルム・フリックの命令を受けたエップは、突撃隊を率いてハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府を武力で解体した。4月10日、エップはバイエルン州の国家代理官に任命され、バイエルン州の統治者となった。エップはアドルフ・ワーグナーを副首相・内務大臣に、フランクを司法大臣に、ハインリヒ・ヒムラーをミュンヘン警察長官に任命し、司法権を掌握した。エップは「ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律」によって任命された最初の国家代理官となった。 しかし、エップは実質的な地方の統治権を持つミュンヘン・上バイエルン大管区指導者のワーグナーや、エップの座を狙うバイエルン州首相ルートヴィヒ・ジーヴェルトとは意見が合わずに衝突した。1933年に、ナチ党政権に反対する勢力の「保護拘禁(ドイツ語版)」に反対し4,000人の釈放を企図するが、ワーグナーやヒムラー、レームの反対に遭い失敗している。しかし、ジャーナリストのエルヴェイン・フォン・アレティン(ドイツ語版)の釈放には成功している。こうした姿勢から、ベルリンの中央政府から冷遇されるようになり、バイエルン州の実権はワーグナーとジーヴェルトに二分されてしまい、エップは儀礼的な存在になってしまう。1934年にバイエルン狩猟協会の会長に就任し、1935年7月25日には歩兵第61連隊長に就任する。1936年には、ワシントンD.C.で開催された世界エネルギー会議にドイツ代表として出席した。 第二次世界大戦中、エップは他のナチ党指導者とは距離を取ったが、表立って中央政府を批判することは避けていた。1945年4月、副官のギュンター・カラッシオラ=デルブローク(ドイツ語版)から、ルプレヒト・ガーングロス(英語版)率いる反乱組織バイエルン自由運動(ドイツ語版)への参加を求められる。エップは反乱に加わり、アメリカ軍の進攻に呼応して非常事態宣言を出し降伏しようとした。しかし、最終的にエップは計画から離脱するが、4月27日にバイエルン州首相パウル・ギースラー率いる親衛隊に逮捕されてザルツブルクに連行され、カラッシオラ=デルブロークら首謀者40人は翌28日に処刑された。
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