ハンガリー、ルーシの影響
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「マラムレシュ」の記事における「ハンガリー、ルーシの影響」の解説
中世まで、マラムレシュの住民はローマ化したダキア人の子孫であるルーマニア人であった。村の組織は19世紀まで存続し、そこでは森林・水・牧草地が村の共有財産とされた。川沿いの低地である草地は、最初は特定の家族に一時的に割り当てられる土地であったが、この地域でそのような肥沃な土地は非常に少なかったため、やがて所有する家族の恒久財産となっていった。そしてそれは、社会的身分の分化とルーマニアの封建制が出現するきっかけとなった。 11世紀から14世紀のマラムレシュの人口は8,000 - 10,000人、人口密度は1人/km2と推定される。村ごとに10 - 25軒の住居があり、50 - 100人が住んでいた。1530年頃のマラムレシュ人口は33,570人と考えられている(計算上の村ごとの平均人口は336人)。その後、18世紀まで人口は停滞していたが、再び増加に転じ、20世紀には35万人に達した。村ごとに3,000 - 4,000人ほどが住んでいる。 13世紀以降、ティサ川沿いの肥沃な土地にハンガリー人やザクセン人が入植し、ヴィーシュコヴォ(ウクライナ語版)(1299年)、フースト(1329年)のような都市や要塞を建設した。ただ、これらの集落は孤立していたため、この地域のルーマニア人にはほとんど影響を与えなかった。 14世紀にはハンガリー王家の圧力により、マラムレシュは徐々に独立性を失った。何人かの実力者は、最初は称号を2倍にし、やがてこれらに代わる高貴な階級を受け入れた。他の指導者は、モルダヴィア、ポーランド、モラヴィアへの移住を選んだ。ポーランドにおいては、16世紀まで「ワラキア法」に基づく伝統的な組織を維持しながら土地と特権を得た。モラヴィアにおいても17世紀の三十年戦争まで自治権を保持した。 この頃から、マラムレシュの貴族は農民に統合され、免税の特権だけを維持するようになる。これは、ルーマニアの遺産分割の伝統に加え、この地域が地理的経済的に大規模な土地を好まなかったことによる。18世紀のオーストリア帝国の記録によると、マラムレシュには高々45,000人の人口に対して15,000人ものルーマニア人貴族がいて、人口比では帝国内で最も高かった。そのため、封建制度を古典的な形式で押し付けることができず、14世紀にはマラムレシュ西部にのみ農奴が存在し、王族のいる都市で外国人貴族が抱えていた。15世紀には農奴が現れるものの、農奴の明確な義務が記録されるのは17世紀以降である。その数は全人口の5分の1に満たず、クヘアでの例にみられるように、ほとんどは他地域から来た人々であった。 15世紀に入ると、ガリツィアでの迫害を逃れたルーシ人がマラムレシュに流入し始めた。最初はテオドラス・カリヨタイティスが連れてきたムカチェヴォで、後にマラムレシュの貴族が保有する土地の労働者として入ってきた。 16世紀には、マラムレシュにある100村のうち、84村がルーマニア人、7村がドイツ人またはハンガリー王族、5村がルーシ人であり、4村はデータがなかった。
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