ハンガリー、ポーランド、中欧の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:19 UTC 版)
「バトゥ」の記事における「ハンガリー、ポーランド、中欧の征服」の解説
詳細は「モンゴルのポーランド侵攻」を参照 1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。 まず西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。シレジア、モラヴィア地方も「ペタ」なる人物の侵攻を受けたようだが、これはバイダルのことと考えられている。カダアン、ブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたサーサーン人(おそらくザクセン人)を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。 一方同年3月にはバトゥの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に降伏勧告を行った。やがてモラヴィアからバイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、ペシュト市を陥落させている。ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世と対峙、宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至った。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。 続く1241年はカダアンらによるトランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などが行われた。夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。
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