ネーヴスミア以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:24 UTC 版)
ヨークの正門ミクルゲート。1607年にはここをスタート地点に競馬が行われた。 ヨーク競馬を復興した頃のアン女王 トマス・ローランドソンが描いたネーヴスミア競馬。この絵では走路を右回りに進んでいるが、かつての4マイル戦ではスタート地点から逆走して2マイル地点で折り返していた。 208年にはローマ皇帝セプティミウス・セウェルスがエボラクムを訪れ、いまの競馬場のあたりで競馬(戦車戦競技)を開催した。この史実をもって「イギリス競馬の発祥の地」とする歴史家もいる。 16世紀頃から現代競馬に直接繋がるヨークでの競馬開催の記録が散見されるが、それらはヨーク近くの別の場所で行われていた。16世紀の歴史家ウィリアム・カムデンは著書『Britannia』のなかでヨークの競馬に言及している。これによると、ヨークの北の森に古くからの常設の競馬場があり、いつも大観衆を集めて巨大な賭けが行われていた。当時は競馬の賞品は銀の鈴が定番だった。 17世紀には1633年にチャールズ1世がヨークを訪れ、「エーコム野(Acomb Moor)」の競馬に臨席したという記録がある。しかし、このあとイギリスでは清教徒革命があり、競馬を堕落・悪徳とみなしたピューリタンはイギリス中の競馬場や牧場を破壊してまわった。オリバー・クロムウェルも軍を率いてチャールズ1世の王立牧場を徹底的に略奪してまわり、名馬を全て自分のものにしてしまった。革命後、ピューリタンはイギリス全土に競馬禁止令を出したが、これは実際には全く守られなかった。 王政復古後、各地で競馬が再興されたが、チャールズ2世と側近たちがフランス亡命時代に獲得した馬術の知見によって、再興された競馬は革命前よりも飛躍的に進化したとされている。その一つが競馬の共通規則が制定・全土に公布されたことで、しばしばこれをもって「近代競馬の始まり」とする。ヨークで初めてこれが実施されたのは1709年9月21日で、この日のレースのために当時のヨーク市長は自費でウーズ川に石橋を架け、スタート地点や標識を整備した。アン女王はこのレースに100ポンドの価値がある金杯を下賜した。国王から100ポンドの賞品・賞金が出るレースを「王室競走(ロイヤルプレート)」や「クイーンズプレート」「キングスプレート」などと呼ぶが、当時はこれが与えられる競馬場はイギリス全土で11箇所に限られていた。 これ以来、このヨークの競馬は毎年行われ、1711年にはアン女王の馬がヨークの競馬に出走、1713年には女王が競馬場に臨席した。翌1714年の開催では、当時はまだごく高貴な人物だけに限られていた馬車が「少なくとも156台」も集まった。この年には女王の馬が賞金40ポンドのレースで優勝したが、レースの翌日に女王が崩御したため、勝利のニュースは女王に届かなかった。
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