ヌーヴェル・ヴァーグの父として
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「ロベルト・ロッセリーニ」の記事における「ヌーヴェル・ヴァーグの父として」の解説
ロッセリーニ作品の多くは、公開当時、イタリアでは正当な評価が得られなかった。後にネオレアリズモ映画の金字塔として崇められている『無防備都市』ですら初めはイタリアでは無視され、アメリカやフランスで熱狂的に迎えられてから、ようやくイタリアでも評価されだしたのだ。そうした意味では『無防備都市』や『イタリア旅行』はまさに「カルト映画中のカルト」だと言える。 『無防備都市』と『戦火のかなた』はアメリカで大成功を収めた。(『戦火のかなた』はメジャーのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが配給)。だが、次の『ドイツ零年』を伝説的なプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンに見せるが、試写が終わった後、「居心地の悪い沈黙ができた」だけだった。その後、バーグマン初のロッセリーニ映画『ストロンボリ、神の土地』は、当時、ハワード・ヒューズが買収したRKOの資金援助で製作された。だが、1950年2月5日、全米300館で公開された『ストロンボリ、神の土地』は興行的に大失敗となった。こうして、ロッセリーニの後ろでハリウッドの扉は閉ざされた。 「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長アンドレ・バザンの「ロッセリーニの擁護」という文章によると、イタリアの批評家たちは、ネオレアリズモの退化は、すでに『ドイツ零年』に現れ、『ストロンボリ』と『神の道化師、フランチェスコ』から決定的になり、『ヨーロッパ一九五一年』と『イタリア旅行』で破局に達したと見なしたらしい。しかし、フランスではバザンを始めとするトリュフォーら後にヌーヴェル・ヴァーグの作家となる若い批評家たちは、『ストロンボリ』や『神の道化師、フランチェスコ』『イタリア旅行』といった「呪われた映画」を断固支持した。そして、ロッセリーニは「フランスのヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれた。一つの例としてジャン=リュック・ゴダールは『イタリア旅行』を見て、1台の車と、男と女がいれば映画が出来ることということを学び、『勝手にしやがれ』(1960年)を撮ったと証言している。また、トリュフォーは、子供の世界を描いた『大人は判ってくれない』は『ドイツ零年』に負うところが大きいと、明言している。 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのロッセリーニ擁護は、ヌーヴェル・ヴァーグに夢中になった若き日のベルナルド・ベルトルッチの作品にも投影されている。ベルトリッチの初期の自伝的な作品『革命前夜』(1964年)で一人の映画狂の青年が登場し、主人公に「君はロッセリーニなしに生きられるか」と問いかけるのだ。そして、この青年は『イタリア旅行』を15回も見たと言う。 イタリアでのロッセリーニの真の後継者は、恐らくエルマンノ・オルミとタヴィアーニ兄弟であろう。1977年のカンヌ国際映画祭はタヴィアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』にグランプリを与えた。その時の審査委員長はロベルト・ロッセリーニだった。そのすぐの後の6月3日、ロッセリーニは心臓発作で死去した。享年71。
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