ヌーベルフランス(カナダ)での活動
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「フランス西インド会社」の記事における「ヌーベルフランス(カナダ)での活動」の解説
1665年、会社はイロコイ・インディアンの侵入に対する備えとして、カリニャン・サリエール連隊(英語版)を得た。ドーフィネ、リグーリア、ピエモンテ、サヴォワから1,200人の兵士が到着して植民地を守り、また、後には兵士達のいくらかは帰国せずに現地に定住した。1666年、行政官のジャン・タロン(英語版)は最初の植民地人口調査を実施して3,215人の住民を確認した。植民地人口は、結婚と出生を奨励する政策の結果として、1672年に6,700人に増加していた。1667年、イロコイ族のいくつかの部族、モホーク族とオナイダ族が和平を結んだ。 シャルル・オーベール・ド・ラ・チェスネ(英語版)はタドゥサックで毛皮商人として1663年から1666年まで働き、会社の総書記として1666年から1669年まで働いてから退社した。そしてサンジャン湖での伐採業(林業)で成功し、仏本国のラ・ロシェルに長期滞在した。これによって、彼はいくつかのヨーロッパ諸国と取引を行うようになり、数隻の船を保有するに至った。 会社の解散直後にカナダに戻ると、1675年から1681年まで、友人であるジャン・ウディエット(フランス語版)と西方会社 (フランス)(フランス語版)の権利を取得し、カナダの主要な輸出品であったビーバーの毛皮(生皮)を独占した。1672年、ジャン・タロン(英語版)は、彼と他の2人のパートナーに、ペルセ(英語版)を漁港とする権利を与えた。彼はリビエール・デュ・ルー(Rivière-du-Loup)の領主権(英語版)を1673年12月23日に受け取った。 チェスネは他にもリビエール・デュ・ルーの東方の荘園領主権(1675年)、セントフランシスとセントジョンの半知行(1677年)、ヘア島(1677年)なども購入した。
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