ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響とは? わかりやすく解説

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ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:16 UTC 版)

ナバス・デ・トロサの戦い」の記事における「ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響」の解説

ナバス・デ・トロサの戦いムワッヒド朝受けた打撃壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島イスラム勢力衰退後退一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝本国であるマグリブにおいても、やや時期遅れたものの、衰退拍車をかけることになった一方でカトリック諸国レコンキスタ進展はずみをつけることになったカトリック諸国間の内紛1225年大飢饉なければ、もっとレコンキスタ加速したであろうと言われている。 1213年ナースィル死後息子ユースフ2世が後を継いだが、1224年に彼が子の無いまま死ぬと後継者争い起こりムワッヒド朝アンダルスも本拠地の北アフリカでも分裂弱体化していった。アンダルス小国家群(タイファ)が乱立北アフリカでもモロッコマリーン朝チュニジアハフス朝誕生ムワッヒド朝対処し切れず1269年マリーン朝攻撃滅亡したナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャバエサウベダ獲得した。これはナバス・デ・トロサ近郊主要な砦であり、アンダルシア侵入する玄関口ともいえる拠点であった。ところが軍に疫病発生したためカトリック連合軍トレド引き返し、翌1213年ペドロ2世ナースィルが、1214年アルフォンソ8世ディエゴ・ロペス2世といった戦い参加者たちが死亡したため双方軍事行動停滞キリスト教側は騎士団ロドリゴ辺境守備奔走しながら拡張試みた上手くいかず、教皇ホノリウス3世十字軍召集呼びかけたりレオン支援要請したが、いずれも成果は上がらなかった。イスラム教側も同様で、守備現地住民ムワッヒド朝総督任せきりの状態だった。 カスティーリャレコンキスタアルフォンソ8世の孫のフェルナンド3世時代1236年コルドバ1243年ムルシア1246年ハエン1248年セビリア占領して飛躍的に進展した新たにアルコスメディナ=シドニアヘレスカディス獲得している。1252年フェルナンド3世死去した時はナスル朝グラナダ王国除いてタイファ諸国はすべて併合された。 一方アラゴンハイメ1世時代1228年から4年をかけてバレアレス諸島征服し1238年9月バレンシア占領したバレンシア13世紀地中海においてジェノヴァヴェネツィアに次ぐ商業都市となり、アラゴンバレアレス諸島からサルデーニャシチリアまでの西地中海域を支配する帝国」へと成長した

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