ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響
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ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にはずみをつけることになった。カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。 1213年のナースィルの死後、息子のユースフ2世が後を継いだが、1224年に彼が子の無いまま死ぬと後継者争いが起こり、ムワッヒド朝はアンダルスでも本拠地の北アフリカでも分裂・弱体化していった。アンダルスに小国家群(タイファ)が乱立、北アフリカでもモロッコのマリーン朝やチュニジアのハフス朝が誕生、ムワッヒド朝は対処し切れず1269年にマリーン朝の攻撃で滅亡した。 ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャはバエサとウベダを獲得した。これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。ところが軍に疫病が発生したためカトリック連合軍はトレドへ引き返し、翌1213年にペドロ2世とナースィルが、1214年にアルフォンソ8世とディエゴ・ロペス2世といった戦いの参加者たちが死亡したため双方の軍事行動は停滞、キリスト教側は騎士団やロドリゴが辺境守備に奔走しながら拡張を試みたが上手くいかず、教皇ホノリウス3世も十字軍召集を呼びかけたりレオンに支援を要請したが、いずれも成果は上がらなかった。イスラム教側も同様で、守備は現地住民とムワッヒド朝の総督に任せきりの状態だった。 カスティーリャのレコンキスタはアルフォンソ8世の孫のフェルナンド3世の時代、1236年にコルドバ、1243年にムルシア、1246年にハエン、1248年にセビリアを占領して飛躍的に進展した。新たにアルコス、メディナ=シドニア、ヘレス、カディスを獲得している。1252年にフェルナンド3世が死去した時はナスル朝グラナダ王国を除いて、タイファ諸国はすべて併合された。 一方、アラゴンはハイメ1世の時代、1228年から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ商業都市となり、アラゴンはバレアレス諸島からサルデーニャやシチリアまでの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
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