ナバホ戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/13 01:24 UTC 版)
ニューメキシコ地区の新しい連邦司令官、ジェームス・ヘンリー・カールトン准将は、カーソンにナバホ族に対する遠征を率いるように命じた。略奪騎馬部族であるナバホ族は、リオ・グランデ川流域全域に点在するプエブロ族インディアンとヨーロッパ人の新参者を襲い、略奪行為を続けていた。 カールトンの指揮の下、カーソンは焦土作戦を開始した。ナバホ族の家と畑を燃やし、家畜も没収するか殺すかした。彼はナバホ族と敵対する他のインディアン部族、主にユテ族の協力を得た。カーソンはこの同盟を喜んだが、ユテ族たちは、ナバホ族の戦利品を押収できないことを聞かされると早々と協力をとりやめた。 ナバホ戦役では小さな小競り合いが続き、カーソンは捕らえたすべてのナバホ族を収監した。1864年1月、カーソンはキャニオン・デ・シェイに仲間を送り、マヌエリト酋長を代表とするナバホ族の最後の本拠地を襲わせた。家畜と食物を破壊され、ナバホ族は降参するしかなかった。1864年の春、8000名のナバホ族は、ほとんど徒歩でニューメキシコのサムナー砦まで300マイル(約480km)の距離を移動させられ、少なくとも200名が死んだ。これが有名な「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」である。 1868年、合衆国政府との条約を結び、残ったナバホ族たちはようやく彼らの故地に戻ることを許可され、キャニオン・デ・シェイ周辺を中心にしたナバホ族の故地に戻った。それが今日存在するナバホ族の保留地である。しかしその地には、彼らのいない間に近隣のホピ族が住み着いてしまっており、これが現在も禍根を残す両部族間の係争となっている。
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