デストゥートヴィル枢機卿の介入 1452年
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「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の記事における「デストゥートヴィル枢機卿の介入 1452年」の解説
ジャンヌの有罪判決がフランス国王の名誉を汚していたというこの議論は、2年後、ノルマンディーの旧家出身であるギヨーム・デストゥートヴィル(英語版)枢機卿に、積極的に取り上げられた。デストゥートヴィルは、1451年に教皇ニコラウス5世がアングロ-フレンチの平和交渉を行うために任命し、フランスに派遣した教皇特使であった。デストゥートヴィルの任務は、フランス軍のノルマンディーからイングランドを攻撃する継続的な成功と、ブルジュ勅令の執行についての議論の2つによって妨げられた。 デストゥートヴィルは、ジャンヌの復権の根拠を取り上げるいくつかの理由をもっていた。第一に、彼の家族はイングランド占領中に土地を失ったが、シャルル7世に忠誠心を示す支持者であった。第二に、彼は有罪判決を受けた異端者との関連を通じて王の称号を明確にすることを望んでいた。最後に、彼は母国への忠誠心を示し、教皇の伝統的権利に影響を及ぼさなかったいかなる問題でも主権を支持することを非常に切望していた。 1452年2月、デストゥートヴィルはシャルル7世との面会を果たした。教会裁判の法廷だけが審理の主導権をとることができるという理由から、デストゥートヴィルはジャン・ブレアル異端検察総監に審理を要請した。1452年5月2日-3日に、教会による予備審査が開始された。尋問官は、証人に前裁判に関連する尋問をし、その後、2日間の調査をもとに5月8日には尋問が再開された。この尋問には、まだ存命である元裁判所の一員の大部分が含まれていた。教皇特使デストゥートヴィルは同年5月22日付の書簡でブレアル異端検察総監とブイエとの協議を、シャルル7世に公式に報告している。これ以後、シャルル7世はブレアルに裁判費用の補償と旅費等費用を支出している。 だが、依然として協力者の問題は解決しない。1452年5月のデストゥートヴィルの調査では、非常に重要な証人の2人が召喚されなかった。つまり、ルーアン大司教ラウール・ルーセルと1431年の教皇代理ジャン・ル・マールである。新しい証言はルーアン大聖堂の2名の律修司祭から新しい証言が得られたが、1431年の出来事について、どちらもあまり記憶が残っていなかった。調査が終了し、ブレアルは「審理要約」を作成、博士や法律家たちに検討を依頼した。1452年末過ぎ、デストゥートヴィルはローマに戻っていた。平和交渉をするという彼の主な任務は成功しなかった。前月にルーセル大司教が死去し、審理とジャンヌの復権再開の大きな障害が取り除かれた。
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