デイビッド・ペインとブーマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 07:59 UTC 版)
「オクラホマ準州」の記事における「デイビッド・ペインとブーマー」の解説
連邦政府の妨害にも拘らず、その土地に対する大衆の要求は止まなかった。デイビッド・L・ペイン大尉はオクラホマを白人開拓者に開放する案の主要な支持者の一人だった。ペインはカンザス州に旅してブーマーの「植民協会」を設立した。ペインの組織は未割付の土地に白人植民地を樹立することを期待し、会員を1万人ほど集めた。この集団の形成によって、ヘイズ大統領は1880年2月12日に、ペインにインディアン準州内に入らないように命令する宣言を発することになった。ペインとその集団はこれに反応して、オクラホマシティの東、未割付の土地内にあるキャンプ・アリスに行った。そこで彼等は都市の計画を作り、「ユーイング」と名付けた。しかし、第4騎兵隊が彼等を逮捕し、レノ砦に連行した後で、カンザス州に戻らせた。公法(民警団法)では軍隊が民事問題に介入することを禁じていたのでペインは激怒した。ペインとその一党は釈放され、実質的に裁判所への出訴も否定された。 ペインと大きな集団は法廷での訴訟の成り行きを心配しつつも7月にはまたユーイングに戻った。軍隊が再度この一党を逮捕し、カンザスに送り返した。彼等はまた解放されたが、今回はアーカンソー州フォートスミスでの裁判に移行した。ペインは不法侵入で「インディアン交流法」に触れると告発された。アイザック・パーカー判事はペインを有罪と裁定し、最大1,000ドルの科料を言い渡した。ペインは金も資産も無かったので、その科料は集められなかった。しかし、この判決は公有地の問題については何も解決していなかったので、ペインは衰えることなくその活動を継続した。その後も数回遠征隊を組織し率いて領内に入った。 ペインはその公判後も3回未割付の土地に入ろうとした。12月、ペインとその集団はインディアン準州の北側境界に沿って移動した。その後をJ・J・コピンガー大佐が指揮する騎兵隊が付けた。コピンガー大佐はペインに、もし境界を越えたらば「強制的に退去させる」と警告した。人々がペインの側に加わり、ブーマーの数が増えたので、ヘイズ大統領にインディアン準州に入る許可を求める使者が送られた。返事が無いままに数週間が過ぎ、ペインはその追随者を率いて未割付の土地に入った。この時も彼等は逮捕されペインはフォートスミスに戻された。ペインは有罪とされ、また1,000ドルの科料を宣告された。ペインは釈放されるとカンザスに戻り、オクラホマを開放させるためにさらに4年間を費やした。 ペインの最後の試みは1884年のチェロキー・アウトレットに入った時であり、軍隊が再度彼を逮捕した。軍隊はペインをカンザスに連れて行く代わりに、複雑な経路を肉体的に厳しい環境の中でフォートスミスまで数百マイルも引っ張りまわした。軍隊の手によるペインの虐待について大衆の同情が大きくなり、政府は遂にその裁判を認めた。ペインはカンザス州トピカの連邦地区裁判所に回された。秋の公判期で、カシアス・G・フォスター判事は起訴を却下し、未割付の土地に入植することは刑法に触れないと裁定した。ブーマーの間で喜びに溢れた祝いが沸き起こった。しかしその喜びも束の間だった。連邦政府が判決の受け入れを拒否した。 ペインは即座に次の遠征を計画したが、それを率いることは無かった。1884年11月28日カンザス州ウェリントンでブーマー達に深夜の演説をした翌朝、ペインは倒れて死んだ。
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