テキストの伝来について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:33 UTC 版)
「アリストテレス」の記事における「テキストの伝来について」の解説
3世紀のディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』ではアリストテレスの著作143書名を挙げ、その中に『正義について』『詩人について』『哲学について』『政治家について』『グリュロス(弁論術について)』『ネリントス』『ソフィスト』『メネクセノス』『エロースについて』『饗宴』など、おそらくプラトンの対話編に倣って書かれた公開的著作が存在していた。それらは現在では殆ど失われ、部分的に他の著作者の引用などで断片が知られるのみである。 また『哲学者列伝』では現代まで伝わっている『形而上学』や『トピカ』などの主著を欠いているが、5・6世紀頃とされる伝ヘシュキオスの『オノマトロゴイ』ではそれらを含めた拡充された著作リストを挙げている。この事実はディオゲネスに知られた著作群の系統と、他の伝来系統が存在していることを示唆しており、『オノマトロゴイ』の時代にはそれらが一つとして統合されていたことが考えられる。 ストラボンの『ゲオグラピカ』の伝えるところによれば、アリストテレスは自分の集めた文庫(ビブリオテーケー)をテオプラストスに譲り、テオプラストスはコリスコスの子のネレウスに譲った。ネレウスは小アジアのスケプシス(現トルコ領クルシュンル・テペ)に持ち帰り、彼は後継者たちに譲ったが、後継者たちは学問に通じておらず文庫を封印したままにして手を着けることがなかった。ペルガモンのアッタロス朝の王たちが自分たちの文庫のために書籍を収集していることを知り、奪われることを恐れた人たちはそれを地下倉に隠し、その破損が進んでしまった。その後に、前1世紀のアテナイの富豪・書籍の収集家であったアペリコンにそれらを売却した。アペリコンはそれを何とか修復して公にしたが、十分な出来とは言えずペリパトス派の哲学者たちはまともに勉強もできない状況であった。アペリコンの死後、ローマのスッラがアテナイを占領し、アペリコンの文庫をローマへと持ち帰り、それを専門家のテュラニオンに委ねた。 プルタルコスの『対比列伝・スッラ伝』ではその続きの顛末が記されている。文庫にはアリストテレスとテオプラトスの書物の大部分が含まれていたが、テュラニオンがその大部分を整理した。そしてロドスのアンドロニコスがそれを転写することを許され、公にし今に行われている著作目録の形にでまとめ上げた。ここにおいてようやくペリパトス派の哲学者たちもアリストテレスやテオプラストスの著作を精確に知ることが出来るようになり、それ以前の同派の哲学者たちはその機会がなかった。 アンドロニコスは転写した資料を内容に応じて分類し、独自に配列してこれを公刊した。この形式が中世においてアリストテレス全集の方式においても受け継がれている。ピロポノスは『自然学註解』において、シドンのポエトスは自然学から学問を始めるべきだと主張したが、彼の師であるアンドロニコスは論理学をもって始めるべきだとしたと伝えている。現在のアリストテレス全集の形式において、論理学諸書(オルガノン)が劈頭に置かれるのはアンドロニコスに由来するということを考えることができる。
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