テキサンの勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 16:29 UTC 版)
詳細は「ゴンザレスの戦い」および「コンセプシオンの戦い」を参照 しかし、会議が開かれようとした前に、サンタ・アナの全国の州市民軍への武装解除の要求に従って、サンアントニオに駐留していたドミンゴ・ウガルテチェア大佐は、メキシコが与えた大砲を戻すように、ゴンザレスに配置されていたテクシャンたちに命令した。テクシャンたちは拒否すると、ウガルテチェアはフランシスコ カスタニェダ中尉と100名の竜騎兵を送った。彼がゴンザレス近くの雨で水位の上がったグアダルペ川の岸に着いた時、対岸には18名のテクシャンがいた。川を渡れないカスタニェダはキャンプを設置した。テクシャンらは取られないように大砲を埋めて、志願兵を求めた。すると2名のテクシャン民兵がそれに応えた。ジョン・ヘンリー・ムーア大佐が融合した反乱者と民兵の長に選出され、大砲を掘り起こして一組の車輪を取り付けた。コウシャッタのネイティブアメリカンがカスタニェダのキャンプに入り、テクシャン側には140名もいることを知らせた。 1835年10月1日午後7時、テキサス軍はカスタニェダの竜騎兵へゆっくりと静かに出発した。午前3時、キャンプに到達し、銃火が交わされた。小競り合いでウマから落ちて鼻から血を出した1名のテクシャン以外は負傷者はいなかった。翌朝交渉が行われ、テクシャンたちは彼らの反乱に加わるようカスタニェダに要請した。テキサスの大義への同情を表したにもかかわらず、彼は反逆へ招かれたことに驚き、交渉は決裂した。テキサス軍は、問題の大砲と "Come and take it"という文字を油で描いた軍旗を作った。大砲の弾を持っていなかったので、押しつぶした金属を詰めて竜騎兵に発砲した。竜騎兵は突撃し、マスケット銃とライフルを発砲したが、カスタニェダは交戦せずに竜騎兵をサンアントニオまで撤収することを決めた。こうしてテキサス革命の戦争は始まった。そして、ゴンザレスの戦いと同じように、突然の蜂起に対してメキシコ守備隊は準備をする時間がなかったので、初期の戦争はテキサス軍が優勢であった。 続いて、テキサス軍はコス将軍が守るベハルを占領した。オースティン将軍が志願兵たちに、コス将軍の軍が飢え死にするのを待つだけの退屈な仕事を与えると、多くの志願兵はあっさりと去っていった。1835年11月中、テキサス軍の数は800名から600名へと減少し、司令官たちはつまらないことで口論をするようになった。ジム・ボウイを含む何名かの司令官は辞職し、ジム・ボウイはゴンザレスへ行った。この、1835年10月12日に始まったベハル包囲戦は、テキサスの「軍」が、いかに統率がとれていなかったかの実証となった。オースティンはすべてのテキサス部隊に司令官を任命していたが、彼の才能は軍事には向いていなかった。メキシコ軍の捕虜は仮釈放されて、二度と戦争に参加しない約束を取り付けた後にメキシコへ送り返した。 テキサスの初期の勝利は、メキシコ歩兵隊の滑腔型マスケット銃よりもより精密で、遠くの標的を狙えた、効果的なライフルによるところが大きい。 全体のモチベーションと指導力を欠いた残りのテキサス軍は、マタモロスへ向かって町を略奪するべく、進撃の準備をした。後にマタモロス遠征として知られるこの企みは、メキシコと戦闘はしたが何の結果ももたらさなかった。1835年11月6日、ホセ・アントニオ・メヒア率いるタンピコ遠征隊はニューオーリンズを出発し、中央集権主義の町の占領を意図したが、失敗した。これらの単独の作戦は、テキサスの物資と人員の動きを枯渇させ、数カ月間は災いしかもたらされなかった。
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