チャルディラーンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:15 UTC 版)
「イスマーイール1世」の記事における「チャルディラーンの戦い」の解説
「チャルディラーンの戦い」も参照 サファヴィー朝は、白羊朝を滅ぼす前年の1507年にアナトリア南東部のドゥルカディル侯国(英語版)を攻撃し、よりアナトリアに勢力を広げるため、シーア派の宣教を行った。イスマイールが自らしたためたトルコ語によるシーア派への勧誘の詩は、ハリーフェという宣教師を通してアナトリア各地の遊牧民に伝えられた。 バヤズィト2世統治下のオスマン朝で推進されていたスンナ派のイスラームに抵抗を感じていたアナトリアの民衆の中には、イスマーイールの宣教を受け入れる者も多かった。1511年に、アナトリアで「シャー・クル(「サファヴィー朝のシャー」の奴隷)」を名乗る人物がオスマン朝に対して反乱を起こし、鎮圧に参加したオスマン側の指揮官には大宰相ハドゥム・アリー・パシャのように戦死した者もいた。 1512年にバヤズィト2世を廃位して即位したスルターン・セリム1世は、即位直後にアナトリアのシーア派に対して弾圧を行った。セリムによって処刑されたアナトリアのシーア派の数は40,000人にものぼり、シーア派の弾圧はサファヴィー朝とオスマン朝の対立を決定的なものとした。1514年3月にセリム1世はイラン高原に親征を行い、イスマーイールもオスマン軍を迎え撃つために出陣した。 オスマン軍との戦いの前夜、西方のディヤルバクルでオスマン軍との戦闘を経験していた将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーはオスマン軍が体制を整える前に夜襲をかけることを提案し、ヘラートの太守ドルミーシュ・ハーン・シャームルーは正面決戦を主張した。イスマーイールは正面決戦を採用し、1514年8月23日にアナトリア東部のチャルディラーンの平原でサファヴィー朝とオスマン軍が衝突した(チャルディラーンの戦い)。オスマン軍に配備された大砲とイェニチェリ部隊が装備した鉄砲によってサファヴィー軍の騎兵隊は打ち破られ、最後まで戦場に留まって指揮を執っていたイスマーイールは負傷し、身代わりを立てて戦場を離脱した。戦闘の結果、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーら将校や従軍していた文官の多くを失い、イスマーイールの妻もオスマン軍に捕らえられた。戦後、イスマーイールは黒い服を着、軍旗も黒に染めて喪に服した。 イスマーイールはチャルディラーンの戦いまで、自らが指揮を執った戦闘では一度も敗れたことが無かった。この「無謬の救世主」の敗戦はイスマーイールの神性を打ち消し、教団の信者であったキジルバシと教主の関係を一般の臣下と王の関係へと変化させることになり、サファヴィー朝の体制に変化をもたらす。そして、教主に対する無私の奉仕の精神を失ったキジルバシたちは、自分が所属する部族の勢力拡大のため、互いに争うようになる。
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