チェスでの活躍
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「マディ・ウォーターズ」の記事における「チェスでの活躍」の解説
1947年、サニーランド・スリム(英語版)に誘われ、アリストクラット・レーベル(英語版)(後のチェス・レコード)のレコーディングに参加。これは、スリムのバッキングをするためであったが、マディも「ジプシー・ウーマン」(英語: Gypsy Woman)、「リトル・アンナ・メイ」(英語: Little Anna Mae)の2曲をレコーディングした。これが彼のレーベルからのデビュー盤となった。このときの編成はスリムのピアノ、ビッグ・クロフォード(英語版)のベースのみをバックにつけたもので、まだバンド・スタイルではなかった。 バンド・スタイルでレコーディングするようになったのは、1950年のパークウェイ・レーベルのセッションから。リロイ・フォスター(英語版)とリトル・ウォルターがヴォーカルを取るセッションではあったが、初めてウォルターがハーモニカをプレイするなど、実質的にマディ・ウォーターズ・バンドの始動とも言える内容であった。パークウェイに負けじと、続いてチェスもマディをバンド・スタイルでレコーディングするようになった。1953年にはオーティス・スパン、1954年にはウィリー・ディクスンがレコーディングに加わるようになり、マディのバンドの形が完成する。同年、「フーチー・クーチー・マン(英語版)」、「恋をしようよ」、「アイム・レディ」など、彼の代表曲となる曲がレコーディングされた。1955年にも「マニッシュ・ボーイ」などがヒットする。1958年には、初のイギリス・ツアーを体験する。 1963年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル(英語版)出演のために渡欧。翌年、当時のフォーク・ブームに乗る形でアルバム『フォーク・シンガー(英語版)』をリリースした。同作には、ギターにバディ・ガイが参加している。この年もフェスティバルのために再度渡欧した。 1968年、異色作『エレクトリック・マッド』をリリース。これは、ロック・ファンにアピールするために、大胆にサイケデリックなアレンジを施した作品であった。ロックへの傾向は続く1975年の『ウッドストック・アルバム(英語版)』でさらに顕著となる。ここではザ・バンドのリヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、ポール・バターフィールドなどロックミュージシャンが参加している。翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート、「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに「マニッシュ・ボーイ」を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。当時は黒人差別が今よりも強い時代であり、一旦、映画制作チームのロビー・ロバートソン側が彼の出演を断る動きをしたが、レヴォン・ヘルムが強硬に反対をしたため、無事出演をすることができた。しかし、フィナーレの前に帰されるなど、映画制作チーム側の彼への扱いは終始礼儀を欠いたものであった。
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