ゾンビー・バードハウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 20:37 UTC 版)
「イギー・ポップ」の記事における「ゾンビー・バードハウス」の解説
ニューヨークに落ち着いたイギーはブロンディの中心人物、クリス・ステイン(英語版)から、彼が設立したインディーレーベル、アニマル・レコーズからの新作リリースを提案された。インディーレーベルにしては十分な前渡金を受け取ったイギーは、ギタリストのロブ・デュプレイに前渡金の一部を渡して作曲パートナーとし、1982年初頭から曲の準備を開始した。レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオで行われ、同年4月頃に終了すると、イギーは恋人で写真家のエスター・フリードマンとともにジャケット写真撮影のためにハイチに渡った。当初の予定では数週間程度の滞在予定だったが、様々な騒動に巻き込まれて滞在費を使い果たしてしまい、フリードマンの金策が実るまで3ヶ月ほど滞在することになった。フリードマンは帰国後にイギーにアルコールと薬物の依存症治療を受けさせるため、ハイチから離れる前にイギーの元内縁の妻であるポーレット・ベンソンに連絡を取り、ノースリッジ病院(英語版)への入院を承諾させた。ロサンゼルスの空港で3人が落ち合うと、ベンソンが承諾書にサインして、イギーはそのまま入院することになった。フリードマンはニューヨークに戻ってジャケット写真をステインに渡し、止まっていた新作のリリース準備が進むことになった。イギー退院後の1982年9月、新作『ゾンビー・バードハウス(英語版)』がアニマル・レコーズからクリサリス・レコード配給でリリースされ、ローリング・ストーン誌といった音楽メディアで比較的高い評価を得ることに成功した。翌10月、イギーは『ゾンビー・バードハウス』のプロモーションと収入確保を兼ねた初のワールドツアーを開始した。2ヶ月間でヨーロッパと北米を回り、ニューヨークで短期間の休息とメジャーレーベルとの契約を目指した活動を行なった後に、それまでは「ゾンビー・バードハウス・ツアー」と名乗っていたツアーの名称を「ブレイキング・ポイント・ツアー」と変更して、1983年2月から再開した。しばらく北米を巡った後、6月に日本に向かった。日本では将来の配偶者となるアサノ・スチと知り合い、そのままツアーに同行させてオセアニア方面に向かうが、オーストラリアでライブ中に負傷した女性から訴訟を起こされたため、その後のツアーは全てキャンセルし、7月にアメリカに帰国することになった。
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