ゾンダーコマンド・エルベ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:16 UTC 版)
「特別攻撃隊」の記事における「ゾンダーコマンド・エルベ」の解説
ドイツ空軍のハヨ・ヘルマン大佐は、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に影響され、当時の駐独大使である大島浩をデーベリッツの司令部に招き特攻について質問して情報を得た。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭のMe 262が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由を挙げて「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した。この作戦にヒトラーは難色を示し、空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングも当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと無理矢理に説得し、ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部のエルベ川周辺に展開したため「ゾンダーコマンド・エルベ」(Sonderkommando Elbe)と称された。 この作戦は1945年4月7日に実行され、内容はMe 109とFw 190を使用し、機関砲を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており、必ず体当たりすることを要求されたのではなく「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられた。国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスはエルベ特別攻撃隊の出撃に際し「体当り戦闘機、今より攻撃に入る。90%の損耗は覚悟の上、恐るべき戦果が期待されん」というプロパガンダを発表している。 しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある)を失い、8機(B-17 5機撃墜との資料 や、20数機との資料もある)の爆撃機を撃墜したにとどまり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった。
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