スヘルデの解放
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参考図:The Battle of the Scheldt September-November 1944 Part I Planning and Operations North of Antwerp の Map 8 参照 1944年9月12日に、ガイ・シモンズ中将の臨時指揮下のカナダ第1軍はスヘルデ地区掃討の任務を与えられた。この時、指揮下にはカナダ第2軍団(II Canadian Corps)及びイギリス第1軍団(British I Corps)だけでなく、ポーランド第1装甲師団、イギリス第49、第52歩兵師団が配属された。 スヘルデ川河口地区の開放計画は4つの主要な作戦行動がそれぞれ関連し、困難な地形の中で行われた。 第1段階の任務はアントワープ北方の地区の掃討とザイト・ベフェラント(Zuid-Beveland)地区への安全な交通の確保 第2段階はレオポルト運河の北、ブレスケンス・ポケット(Breskens Pocket)の掃討(「スイッチバック作戦」) 第3段階はゾイト・ベヴァラント地区の占領で、これは「ヴァイタリティ作戦」と名付けられた。 最終段階は防御をかためられてドイツ軍の強力な要塞と化していたワルヘレン島(Walcheren)の占領(「インファチュエイト(Infatuate)作戦」)であった。ワルヘレン島は大西洋の壁と呼ばれたドイツ軍の強固な防衛線の一部で、「ドイツ軍が強力な防御陣地を構築した」ものと考えられていた。 9月21日、カナダ第4装甲師団は、「ブレスケンス・ポケット」と呼ばれたスヘルデ川南岸にあるオランダの町ブレスケンス(Breskens)周辺地区の掃討任務を与えられて、ヘント - テルヌーゼン運河(en:Ghent–Terneuzen Canal)の線のほぼ北の線に沿って移動した。ポーランド第1装甲師団はオランダ-ベルギー国境線に向かい、さらに東にアントウェルペン北方の重要な地区に進攻した。 カナダ第4装甲師団はムーブルッヘ(Moerbrugge)でヘント運河を渡河し橋頭堡を設けたが、レオポルド運河とレイエ川との二重線による強固な防御陣地に直面した最初の連合国軍部隊となった。ムーケルケ(Moerkerke)付近で攻撃を開始し、運河を渡り橋頭堡を築いたがドイツ軍の反撃に遭遇し多くの犠牲を出したため撤退した。 ポーランド第1装甲師団はヘント北東から東方への進攻は成功を収めた。この地域は装甲部隊には不向きで、また強固な抵抗に遭った、師団は9月20日に海岸に向け進攻し、テルネーゼンを占領しスヘルデ川南岸を東方へアントウェルペンまでを掃討した。 シモンズは、スヘルデ地区内のさらに遠方のゼーブルッヘ(Zeebrugge)からブラークマン入江(Braakman Inlet)まで、内陸へはレオポルト運河まで広がる、強力なドイツ第15軍に守られたブレスケンス・ポケットを攻略するのは多大な犠牲が必要とされると認識した。
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