スネークと出会うまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 10:21 UTC 版)
「マクドネル・ミラー」の記事における「スネークと出会うまで」の解説
東京都出身。母親は10代半ばの頃、1945年3月10日の東京大空襲で焼け出され、横須賀に住む親戚に引き取られた。戦後、母親は駐留米軍相手にパンパンとして働き、GHQ民政局局長コートニー・ホイットニーの下で働く米軍将校との間にミラーを授かる。父親は日本にいる間ミラーの母親を妻のように扱ったが、帰国後に退役、現役軍人相手に講師となり「アメリカの家族」とバージニア州で暮らし始め、一切日本へ連絡をしなかった。また、母も父の話はほとんどしなかったため、本人は父の素性どころか名前も知らず、ある切っ掛けで父親の写真を見つけるまで顔も知らなかった。 年少のころは、日本人に不釣り合いな髪の色や目の色から、近所の人に揶揄されてきた。そのため、幼少のころより「俺は勝者アメリカの子なんだ」「アメリカこそが俺の祖国で、いつかアメリカに行く」と考えていた。 母は娼婦をやめてから父の残した金で煙草店を経営していたが、ミラーが10歳のとき体を壊し寝たきりとなったため、ミラーが代わりに店番をすることになる。父の名前・素性を知りたかったミラーは、米兵が来店するたびに父の写真を見せるなどして、父を知る人物を探した。数年後、ある米兵が「そいつはミラーだ、知ってるよ」と名前を教えてくれ、その後偶然来店した父の教え子から所在を聞く。ミラーはアメリカに行きたいという気持ちから、父に対して会いたいという旨の手紙を送ったところ、了承を得たため、母親を入院させて渡米する。父は年老い、すでに講師をやめていた。父にとってマクドネル・ミラーは、ベトナム戦争で戦死した「アメリカの息子」や離婚した妻の穴を埋める存在であり、ミラー自身もそれを認識していた。 22歳まで父と共に暮らしたが、大学卒業を境に日本へ帰国した。帰国後は病気が進行した母親を養うため日本に留まり、他に働き口が考えられるにもかかわらず1969年に陸上自衛隊に入隊した。2年後の1971年、母親の死去に伴い除隊する。除隊理由は母の死にあるが、「自衛隊では父親のいた米軍と肩を並べられない」「専守防衛に馴染めない」「三島由紀夫の自害で生き方や兵士としての在り方などを考えさせられた」などもあった。除隊後はアメリカに戻るが、すでに父親は自殺していた。
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